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【連載1】ABBAを見てピンク・レディーと嗤うな──神戸の歴史と「横綱トマト」が突きつける本物の味

昭和の荒れたモノクロの風景(水害や逃避行を暗示する歴史的背景)をベースに、中央に極彩色で瑞々しい「真っ赤なトマト」が鮮烈に配置されているデザイン。トマトの周囲には薄く「甘味」「旨味」「酸味」の文字が正三角形のレイアウトで浮かび上がる。歴史の重みと本物の食材の対比を視覚的に訴えかける構成。

朝のニュース解説‖選挙とSNSの盲点‖2026年4月28日(火)

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【結論】

「とりあえず」と口走る薄っぺらい教養の欠如が蔓延する中、歴史的ルーツと本物の味(甘味・旨味・酸味の正三角形)を知ることこそが、現代の虚無に対抗する唯一の「サブスタンス(実体・本質)」である。

【ポイント3選】

  • ビール以外の「とりあえず」: 言葉の重みを知らない現代人への痛烈な違和感
  • 水害の記憶と神戸への情念: 阪神大水害が結ぶ奈良と神戸の抜き差しならないルーツ
  • 横綱トマトの「正三角形」: 塩味さえ錯覚させる究極の旨味と教養なきインフルエンサーへの冷笑

「とりあえず」から始まる教養なき世界の蔓延

ビール以外に「とりあえず」は許されない

「とりあえず、これで行きましょう」

仕事の現場で、息をするようにこの言葉を吐く輩がいる。そのたびに僕は、腹の底から湧き上がる嫌悪感を抑えきれなくなる。「とりあえず」だと? お前は何を言っているんだ。

僕がまだ若かった頃、会社の上司に「とりあえず、こうしておきました」と報告したことがある。その瞬間、雷が落ちた。「とりあえずって言うてええのは、ビール頼む時だけやぞ!」と。今になって思えば、怒られる理由は痛いほどよく分かる。確かにそうなんである。言葉の重み、仕事の責任から逃げるためのエクスキューズとして「とりあえず」を乱用する軽薄さ。そんなものは、居酒屋で「とりあえずビール」と頼む時以外に許されるはずがない。言葉を知らない、いや、言葉に込められた「サブスタンス(実体・教養)」を知ろうとしない連中が多すぎるのだ。

ABBAを見てピンク・レディーと嗤う絶望的な無教養

その「教養なき軽薄さ」が極まっているのが、今のインターネット空間である。例えば、僕が最高峰の「神戸本」だと断言してやまない江弘毅氏の著書『神戸と洋食』。この名著のAmazonレビューに、こんなことを書いているアホがいた。

江弘毅著『神戸と洋食』を手に持ち、解説する菅野完。表紙にはオムライスのような料理や洋食の歴史に関する紹介文が記されている。

「この人の文章は、どこか『エルマガジン』や『あまから手帖』のような感じがして、オリジナリティがない」

……思わず画面に向かって「本人やんけ!」と全力でツッコミを入れてしまった。オリジナルもクソもない。関西の文系学生たちがこぞって読んでいたあの雑誌のカルチャーを、ゼロから作り上げた張本人に向かって「エルマガジンのパクリ」とは、一体どういう神経をしているのか。

これはアレだ、「ABBAを見て『ピンク・レディーみたいやな』って嗤う」のと同じである。自分たちが享受している文化の源流を知らず、表面的な「似ている・似ていない」だけで知ったかぶりをする。この絶望的な無教養こそが、現代の病巣なのだ。

祖父のルーツと水害が結ぶ「神戸への偏愛」

阪神大水害と奈良への逃避行が残したDNA

僕自身は神戸の人間でも兵庫の人間でもない。奈良の片田舎の出身だ。それでも、僕の中には神戸に対する抜き差しならない「愛着心」、いや、一種の「情念」のようなものがこびりついている。

うちの祖父は、もともと神戸の生田川付近の出身だった。しかし、戦前の昭和13年に起きたあの阪神大水害──手塚治虫が『アドルフに告ぐ』で生々しく描いた、あのむちゃくちゃな水害によって、神戸から奈良へ逃げてきたのだ。だから本籍はずっと兵庫県のまま。当時の徴兵は本籍地ベースだったから、奈良に住んでいながら、わざわざ姫路の連隊まで引っ張られていったという、歴史のうねりに翻弄されたルーツがある。

田舎者の憧れとジョン・ロブの靴

そうした背景もあって、関西の田舎者である僕にとって、神戸という街は常に強烈な憧れの対象だった。奈良の天理のクソ田舎の同級生たちもそうだったが、神戸へのコンプレックスは半端じゃない。

「絶対にジョン・ロブの靴は神戸で買う」

そう心に決め、中高生の頃から必死で金を貯め、元町で人生最初のジョン・ロブを買った時のあの執念。僕にとって神戸は、ただの「おしゃれな街」ではなく、自分の足元を確かめ、背伸びをしてでも触れたい「本物の文化」が息づく場所なのだ。

甘味・旨味・酸味の「正三角形」──元町「横綱トマト」の衝撃

塩なしで感じる六角形の「旨味(塩味)」

そんな「本物」を知る神戸の底力を、思い知らされる出来事があった。元町の「フルーツ1番」で売られている「横綱トマト」である。

ある日、馴染みの寿司屋でこれを切ってもらい、一口食べた瞬間、僕は「誰やねん! 塩かけたんは!」と叫びそうになった。塩など一切かかっていないのに、明確な「塩味」を感じたからだ。包丁に塩が残っていたのかと疑い、自分の家で切ってみても結果は同じ。

これは錯覚ではない。丸みを帯びた椎茸の出汁ではなく、昆布出汁のように少し尖った「六角形の旨味成分」(おそらくグルタミン酸ナトリウム的なもの)が、トマトの中に限界まで詰まっているから、舌がそれを「塩味(えんみ)」として誤認するのだ。かつて、祖父が奈良の畑からむしり取って、「霜が3回降りたから美味いはずや」と泥がついたまま口に放り込んでくれた水菜──極限まで旨味が増した、あの奇跡の味と同じ衝撃だった。

極限のポテンシャルと題し、錯覚を呼ぶ旨味や六角形の鋭い旨味成分の概念図と、塩なしで感じる塩味と極限の旨味についての説明文。

食べる向きで味が変わる奇跡のバランス

さらに恐ろしいのは、この横綱トマト、ただ切って皿に並べただけなのに、箸で掴んで「口に入れる向き」を変えるだけで味が変わることだ。

嘘だと思うなら試してみればいい。甘味、旨味、酸味のバランスが「綺麗な正三角形」を描いているため、口の粘膜に最初に当たる「頂点」が甘味か、酸味か、旨味かで、脳が受け取る第一印象が劇的に変わるのだ。割烹の職人が「大根は切り方で味が変わる」と言うのを「嘘つけ」と思っていたが、あれは本当だった。本物の食材が持つポテンシャルとは、かくも恐ろしい。

サブスタンスなきインフルエンサーへの痛烈な皮肉

こうした「本物」の凄みを語ろうとする時、今の世の中を見渡すと眩暈がしてくる。

中国のインフルエンサーが、たった4秒で服を着替えて「ワーッ」と騒ぎ立てるだけで物が売れる時代。中身のない薄っぺらい宣伝がもてはやされる時代。だが、本当に何かを伝え、宣伝したいのなら、お前の頭の中に「教養(サブスタンス)」が詰まっているかどうかが問われるのだ。

サザエさんの年齢設定(24歳)も、バカボンのパパの年齢(41歳)も知らない。サザエとカツオの年齢がなぜあんなに離れているのか、その間に「15年戦争」があったという当時の家族のリアルすら読み取れない。小津安二郎の『東京物語』(昭和28年)の背景にある戦争の影すら想像できない。

そんな薄っぺらい連中が、表面的な言葉だけで「本物」を語ろうなどと片腹痛い。教養なきインフルエンサーの騒ぎ声に惑わされず、自らの舌で、頭で、歴史で「本物」を味わうこと。横綱トマトのあの狂おしいほどの旨さは、そんな当たり前の事実を僕たちに突きつけている。

たもっちゃん
たもっちゃん

「とりあえずビール」の重みと、あの横綱トマトが突きつける「本物」の凄み、ちょっとは伝わったかと思うんやわ 。頭の中に教養(サブスタンス)が詰まってないから、世の中の薄っぺらい情報にコロッと騙されてまうわけですよ 。

次回の記事ではね、その教養なき世界の成れの果て、国際政治の底知れぬ「闇」とメディアの絶望的な怠慢について語らせてもらうつもりです。

冷静に考えてみてほしいんやけど、2重3重の防空システム「アイアンドーム」を持つイスラエルが、なんで機関銃を背負って歩いてくるハマスの歩兵の奇襲を『見逃した』のか 。おまけに犠牲になったのは、都合よく戦争反対派の人たちばっかりやったという、あの気味の悪さ 。

それに、NPT会議で大国がエゴで横暴を極める中、国連の軍縮トップである日本人の中満泉さんを、日本のメディアは毎日新聞以外完全に黙殺してるわけです 。このアメリカに尻尾を振るだけの情けない従属っぷり、新聞読んでるだけでほんまに皮膚が爛れそうになるんやわ 。

『銀河英雄伝説』のオーベルシュタインも青ざめるような、ネタニヤフの冷酷な権力構造 。権力への忖度と暴走がどうやってリンクしてるのか、徹底的に解剖していくんで、次も一緒に考えていけたらと思うわけですわ。

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