序論:動かぬエアコンと動かぬ社会
YouTube動画 朝刊チェック:クマと中国に食いつぶされる日本 2025年11月19日
兵庫県の県立高校で、ある奇妙な事態が起きている。猛暑対策として体育館に最新のエアコンが設置されたにもかかわらず、肝心の電気代の予算がなく、生徒たちはそれを横目に汗を流しているというのだ。一見すると笑い話のような行政の失態だが、この「動かぬエアコン」は、日本社会や多くの組織が抱える、より深刻で構造的な病理を映し出す鏡である。
菅野氏は、この一件が単なる一地方の計画ミスではなく、成果の実質よりも導入という象徴を優先する**「実績作りのための行政」**がもたらした、必然の帰結であると論じる。兵庫県の斎藤元彦知事は、かつてSNS上で「もはや『我慢』の時代ではありません。『対策』こそが重要です」と力強く宣言した。しかし、その「対策」がなぜこれほどまでに形骸化してしまうのか。この皮肉な現実こそが、我々が向き合うべき問いである。
本論では、まずこの事例を詳細に解剖し、その次にこの失敗の構造を「補給なき作戦」として定義する。さらに、この問題が驚くほど過去の歴史的失敗と酷似していることを指摘し、最後に、このような見せかけの対策がもたらす金銭的・心理的コストがいかに大きいかを明らかにしていく。この動かぬエアコンは、我々の社会がどこで道を誤っているのかを静かに、しかし雄弁に物語っている。
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1. 事例の解剖:兵庫県高校体育館の「見せかけの対策」
この問題の本質に迫るため、まずは兵庫県で何が起きたのか、その全体像を正確に把握する必要がある。これは単なる予算不足の話ではなく、目的と手段が乖離し、善意の政策が現場で機能不全に陥る典型的なプロセスを示している。
朝日新聞の報道によれば、兵庫県の斎藤元彦知事は、近年の猛暑を受け、生徒の健康を守るため、そして災害時の避難所としての機能を確保するために、県立高校体育館へのエアコン設置を強力に推進した。文部科学省の調査では、全国の高校体育館のエアコン設置率が14%であるのに対し、兵庫県は9.9%と遅れをとっていた。これを受け、県は2023年度から25年度にかけて52校での設置計画を進め、既に34校で工事を完了させている。
数字の上では、対策は着実に進んでいるように見える。しかし、現場の教員からは「設置されたのはいいけど、授業や部活で使えない」という悲痛な声が上がっている。実際、ある高校では、エアコンが稼働したのは1学期の終業式と2学期の始業式など、ごく限られたイベントのみであった。エアコンの操作盤には鍵がかけられ、教員が自由に使うことは許されていない。
なぜ、このような本末転倒な事態が起きているのか。その根本原因は、驚くほど単純である。エアコンを動かすための電気代の予算が、県から支給されていなかったのだ。つまり、「エアコンを設置する」という目に見える「対策」は実行されたものの、それを「運用する」という最も基本的な要素が完全に抜け落ちていたのである。
この事例は、目的達成のための手段(エアコン)は用意されたものの、それを動かす必須の補給(電気代)が欠けているという、典型的な計画の失敗例に他ならない。この構造的な欠陥はなぜ生まれるのか。次章では、この問題をより深く掘り下げていく。
2. 「補給なき作戦」の構造:なぜ計画は失敗するのか
兵庫の事例は、より普遍的な「計画なき実行」という問題の典型例として分析することができる。その構造的欠陥を理解するために、この事態を「補給なき作戦」と定義したい。これは、目標達成のための華々しい「作戦」(エアコン設置)は実行されるものの、その作戦を継続させるための兵站、すなわち「補給」(電気代)が全く考慮されていない状況を指す。この本質は、ソース提供者の痛烈な言葉に集約されている。
エアコン設置という作戦を実行しても、電気代という「補給が足らへん」。 これは、豪華な船を建造しても、燃料を買う予算がないので港から一歩も出られない状況と全く同じである。
立派な船も燃料がなければただの鉄の塊であるように、最新のエアコンも電気がなければ無用の長物だ。この単純な論理が、なぜ意思決定の過程で見過ごされてしまうのか。
その根源には、**「調べもせんのに結論にたどり着こうとする」**という思考様式が存在する。エアコン設置という「結論」ありきで話が進み、その運用に不可欠なコストという、当然予見できるはずの課題の調査と計画が著しく軽視されたのだ。本来であれば、設置の決定前に、年間運用コストの試算、予算の確保、そして現場での運用ルールの策定までが行われるべきであった。
この種の調査不足は、決してこの事例に限った話ではない。例えば、近年深刻化する熊の出没問題においても、同様の構造が見られる。どんぐりの不作や生態系の変化といった根本原因を厳密に調査することなく、場当たり的な駆除や注意喚起に終始する。いずれのケースも、問題の根本原因(運用コスト、生態系の変化)という複雑で目に見えにくい課題から目をそらし、設置や駆除といった即物的で分かりやすい「対策」に飛びつくという点で、思考の怠慢を共有している。
このような「行き当たりばったり」の意思決定プロセスは、単なる非効率では済まされない。実は、これは日本の歴史において、より大きな悲劇として繰り返されてきた失敗のパターンと驚くほど酷似しているのである。
3. 歴史からの警鐘:偵察なき戦争との相似
現代行政の非効率性を分析する上で、我々は遠い過去に目を向ける必要がある。なぜなら、兵庫の動かぬエアコンが示す構造的欠陥は、この国がかつて国家の命運を賭けた戦争で犯した過ちと、驚くほど正確に重なり合うからだ。
菅野氏がこの状況を**「90年前に戦争に負けた奴らと一緒」**と断じているのは、決して大げさな比喩ではない。計画性の欠如、特に現状分析を怠る姿勢は、旧日本軍が陥った戦略的欠陥と軌を一にする。熊対策の失敗が「日中戦争に日本が負けた理由と全く一緒」と喝破されるように、その共通の欠陥は、以下の点に集約される。
「偵察せんと戦争して予測と違い不思議やな、不思議やな言ってる」
つまり、敵情や地形、補給路といった基本的な情報収集(偵察)を怠ったまま作戦を開始し、想定外の事態に陥っては「なぜだ」と首を傾げる。エアコン問題で言えば、「運用コスト」という最も基本的な情報を偵察せずに設置を断行し、「なぜ使えないのだ」と現場が混乱する構図と全く同じである。補給という概念の欠如は、前線で兵士を飢えさせ、作戦そのものを破綻させた歴史の教訓と重なる。
この歴史的類比が示すのは、兵庫の事例が単なる予算配分のミスや行政の怠慢ではなく、組織文化に深く根ざした、極めて危険な思考様式の表れであるという事実だ。精神論や思い付きで「作戦」を開始し、その持続可能性を支える地道な「補給」を軽視する文化。それは、過去の悲劇を生んだものと地続きなのである。
歴史の教訓を無視した「補給なき作戦」は、かつて前線の兵士を絶望させたように、現代においては市民の信頼と希望を静かに蝕んでいく。その精神的コストは、無駄に費やされた税金よりも遥かに大きいのである。
4. 壮大な無駄遣いと精神的コスト:見せかけの対策が人々を蝕む
表面的な対策がもたらす害悪は、投じられた税金が無駄になるという金銭的な損失だけではない。むしろ、それ以上に深刻なのは、それが人々の心や社会の信頼にいかに深いダメージを与えるかという点にある。
まず、使われないエアコンは、文字通り**「壮大な無駄遣い」**である。これは、「やるべきことをやってます」という行政の体裁を整えるためだけに実行された、アリバイ作りのための投資と言わざるを得ない。政治的な実績としてアピールしやすい設置のような一度きりの事業に予算を投じ、地味で目立たないが不可欠な運営予算を軽視する。この政治的インセンティブの歪みが、結果として誰のためにもならない無駄を生み出しているのだ。
しかし、問題はさらに根深い。この状況は、人々の精神衛生を著しく害する。
「『エアコンがない状態で暑い』のと、『使われへんエアコンを見ながら暑い』のを比べれば、後者の方が心にとって遥かに不快である」
菅野氏のこの分析は、人間の心理を見事に捉えている。何もない状態であれば、単に不便な現実として受け入れるしかない。しかし、目の前に解決策(エアコン)が存在するにもかかわらず、それが意図的に使用不能にされている状況は、単なる不快感を通り越し、期待を裏切られたことへの怒り、そして何も変えられないことへの無力感を増幅させる。
この「使えないエアコン」は、再発防止策を伴わない空虚な謝罪の完璧なメタファーでもある。「ごめんなさい」という言葉だけを繰り返しながら、行動を改める気配が全くない相手と向き合う時、我々は許すどころか、むしろ愚弄されていると感じるだろう。それと同様に、使えないエアコンの存在は、市民に対する行政の欺瞞であり、むしろ何もない状態よりも遥かに強い苛立ちと不信感を生み出すのだ。
結論として、見せかけの対策は社会にシニシズム(冷笑主義)を蔓延させる。人々は「どうせやっているフリだけだろう」と行政の取り組みを冷ややかに見るようになり、社会全体の信頼資本は根本から破壊されていく。これこそが、動かぬエアコンがもたらす最大の悲劇である。
結論:形骸化した「対策」を越えて
兵庫の高校体育館に静かに佇む「動かぬエアコン」。それは、我々の社会が抱える構造的欠陥を無言で告発するモニュメントである。本稿で論じてきたように、この一件は単なる地方行政の失態ではなく、**「調査不足」に起因する「補給なき作戦」であり、それは「歴史的失敗の反復」**とも言える根深い病理の表れに他ならない。
斎藤知事が述べた「対策こそが重要」という言葉は、その通りである。しかし、我々が目指すべき真の「対策」とは、設置や導入といった表面的な行動を指すのではない。それは、目的を確実に達成するための徹底的な調査、現実的な計画、そして持続可能な運用体制の構築までを含む、一貫したプロセスの総体であるべきだ。豪華な船を造るだけでなく、それを動かす燃料と航海計画までを用意して、初めて「対策」は意味をなす。
この問題は、決して兵庫県だけの、あるいは特定の知事だけの問題ではない。計画よりもアリバイ作りの実行を優先し、地道な調査や運用設計を軽視する文化は、残念ながら私たちの多くが属する企業や組織、そして社会全体に蔓延している。自分の職場やコミュニティに「動かぬエアコン」は存在しないだろうか。
この一台のエアコンが与える教訓を、我々は傍観者としてではなく、当事者として受け止めねばならない。表面的な体裁を取り繕う文化から決別し、実質と成果を重んじる社会へと転換すること。それができなければ、我々はこれからも無数の「動かぬエアコン」を社会の至る所に設置し続け、その前でただ汗を流しながら、自らの無力さを嘆くだけになるだろう。その壮大な無駄遣いから我々が学ぶべきは、それこそが唯一にして最大の「対策」なのである。
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