記事の要約と図解
【結論】 日本社会に深く根付く「無自覚な加害者意識の欠如」が、地方の歪んだ排外主義や、現実の困窮者を置き去りにするリベラル層の独善を生み出している 。今求められているのは、己の加害性や特権性を自省し、上から目線で綺麗事を語るのをやめ、生活者の「しんどい」というリアルな声に徹底して耳を傾けることである 。
【ポイント3選】
- エンタメに潜む被害者意識: 『ゴジラ』や数々の戦争映画に見られるように、日本人は自らを「絶対的な被害者」として描くナラティブに依存しており、市民レベルの加害性に長年無自覚であった 。
- 地方の欺瞞と排外主義: 茨城県の不法就労外国人通報制度に見られるように、長年フィリピンパブなどで外国人労働者を搾取してきた過去を棚に上げる地方の振る舞いは、究極の加害者意識の欠如である 。
- リベラルの致命的欠陥: 野党や左翼は「ジェンダー」や「平和」を語る前に、手取り19万円で苦しむ若者に「しんどいな」と寄り添うべきである 。語るのをやめ、有権者の声を聞くことこそが政治の出発点である 。
■ 【徹底解説】日本社会を覆う「被害者意識」の病理と、リベラルの致命的敗北
導入:なぜ日本人は「被害者目線」のエンタメを好むのか
戦後日本社会の根底には、驚くほど強固な「被害者意識」が横たわっている。特撮映画から名作とされる戦争映画に至るまで、日本人の多くは、自らを「理不尽な暴力に晒される被害者」として描く物語を再生産し、消費し続けてきた。この強烈な自己認識の歪みこそが、自らの加害性を忘却させ、果ては現代の政治的・社会的断絶をも生み出す病理の源泉なのである。
戦争映画や特撮に見る「絶望的な被害者」としての自己認識
日本の特撮映画、とりわけ初代『ゴジラ』が描いたのは、圧倒的な力の前にひれ伏すしかない絶望である。ゴジラがB29や原爆のメタファーであることは明らかであり、観客は「抗いようのない圧倒的な暴力」の前に、自らを絶対的な被害者と位置づける絶望とある種の哀切なカタルシスに叩き込まれる。この被害者目線は、『東京物語』から『二十四の瞳』『ビルマの竪琴』に至るまで、日本の戦争映画の基本構造となっている。名作と名高い『はだしのゲン』でさえ、反戦を強く訴える一方で、一市民が結果的に加害体制に組み込まれていたという構造的な自省の点では不十分な側面がある。普通に生活している人々が、縁もゆかりもない南の島に連れて行かれ、飢えに苦しんだという「かわいそうな私たち」という物語が消費される一方で、なぜ彼らがそこへ行くことになったのかという国家の加害責任は巧妙に捨象されてしまうのだ。
市民の無自覚な加害性を描いた『この世界の片隅に』の衝撃
この欺瞞に満ちた被害者目線の歴史において、唯一の例外と言えるのが『この世界の片隅に』である。この作品は、通常の人々が狂うことなく、普通の生活を送る中で無自覚に帝国の侵略と加害行為に加担していたという残酷な事実を描き切った。 翻る太極旗を見て、自分たちが食べていた白米が朝鮮や台湾などから収奪したものだったと気づき、泣き崩れるシーンは、戦後70年経って初めて描かれた「市民の総括」であった。この帝国主義的な侵略への無自覚な加担ぶりを学習しない限り、本当の意味での戦争の反省には至らないのである。
無自覚な加害性と排外主義のリアル
市民レベルでの加害への無自覚さは、過去の戦争の話にとどまらない。それは現在進行形で、歪んだ排外主義や、構造的弱者に対する搾取の連鎖として表出している。
茨城県の外国人通報制度に見る田舎の醜悪な欺瞞
その最たる例が、茨城県が導入を打ち出した「不法就労の外国人を通報すれば報奨金を払う」という制度である。一部のリベラルはこれを「ファシズムだ」と批判するが、本質的な問題はそこではない。 茨城の金持ちの男たちは、1980年代から40年間にわたり、フィリピンパブで外国人女性を愛人として囲い、性的・経済的に搾取し続けてきたではないか。かつて人身売買まがいのブローカーを通して連れてこられた女性たちを消費してきた歴史を透明化し、今になって『不法就労を通報しろ』と言い放つ。この自分たちの加害性を完全に棚に上げた振る舞いこそが、日本社会に巣食う醜悪さの正体である。
政治の世界にも蔓延する「自分は正しい」という欺瞞
さらに厄介なのは、この「加害者意識の欠如」と「自分だけは正しい(不当に虐げられた)被害者である」という無自覚な傲慢さが、本来弱者の側に立つべき野党やリベラル層のメンタリティにも深く通底している点である。
生活者のリアルな痛みを無視するリベラルのズレ
左翼の本来の仕事は、人権や平和を高らかに謳い上げることではない。それは実質的に飢えている人々、生活が苦しい人々の代弁者となることである。 額面25万円の給与から税金と社会保険料を引かれ、手取り19万円しか残らない。そこから家賃8万円を払い、奨学金を返し、残りのわずかな金でどうやって結婚に備えればいいのかと俯く若者がいる。明日の家賃や食費に怯える彼らに向かって、「ジェンダー平等」や「改憲阻止」といった高尚な理念だけを上段から語りかけて、一体何が響くというのか。今のリベラルが泥臭く語るべきは、『日々の生活の糧(カネ)の話』であり、現代の困窮者に対する現実的かつ即効性のある経済的救済策であるはずだ。
語るな、聞け。自民党の強さと野党の致命的な欠陥
れいわ新選組や参政党、そして立憲民主党もが陥っている罠は、「自分たちが正論を語り、大衆を啓蒙しようとしている」ことだ。スピーカーを聴衆に向け、自民党の悪政を声高に批判することは確かに正論である。しかし、有権者が求めているのは正論のシャワーではない。 本当に必要なのは、困窮する人々に「兄弟、しんどいな。寒いな」と声をかけ、その痛みに共感することである。自民党がなぜ選挙に強いか。それは彼らが野党時代に、全国で3000回ものヒアリングを行い、有権者の罵声をただひたすらに受け止め、『聞く』という地道で過酷な努力を続けたからである。野党はマイクを握って喋るのをやめ、まずは泥臭く大衆の家に上がり込み、話を聞くことから始めなければならない。
結論:自省し、他者の痛みを聞くことから始めよ
日本社会が再生するためには、我々自身がまず自己のあり方を深く反省する必要がある。
周恩来が突きつけた「己を行うに恥あり」の真意

日中国交正常化の際、周恩来は田中角栄に対して「言必信、行必果(言ったことは必ず実行する)」という論語の言葉を贈った。田中はこれを喜んだが、実はこの言葉には続きがある。論語において、約束を守る程度の人間は「三流の小人」に過ぎないのだ。 周恩来が真に突きつけていたのは、その最高位にある「己を行うに恥あり」という言葉である。己の行いを恥じる心、すなわち過去の加害の歴史や自分自身の傲慢さを自省する心があって初めて、一人の人間として、そして国家として真っ当になれるのだと、彼は50年前に日本人に突きつけていたのである。 我々は今こそ、自らを安全な「被害者」の箱に閉じ込める特権的な意識を捨て、己の無自覚な加害性を深く恥じ、まずは沈黙して他者のリアルな痛みを聞くという、最も困難で泥臭い作業に向き合わなければならない。それなしに、日本社会の真の再生などあり得ないのだ。
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