2/19(木)朝刊チェック:平和と人権について語ることはむしろ左翼and/orリベラルとしての怠慢であり堕落ですらある
記事の要約と図解
【結論】
リベラルや左派が「平和と人権」という道徳的スローガンに逃げ込むことは、有権者の経済的苦境から目を背ける完全な「怠慢」である。政治の本来の役割は「有権者の財布を守ること」であり、憲法9条も崇めるべきイデオロギーではなく、無駄な戦争と出費を回避するための「最強の実利用ツール(鎖)」として使い倒す冷徹なリアリズムこそが今求められている。
【ポイント3選】
- 有権者の関心は「金」である: 出口調査が示す通り、国民の過半数は「景気・雇用・社会保障」を重視している。人権や平和は社会の「前提(家を建てる釘)」であり、それを前面に押し出して「家(生活)」を売らないのは政治的敗北である。
- 左派ポピュリズムの復権: 軍拡を「戦争への道」と観念的に批判するのではなく、「毎月お前の財布から2万円抜かれるぞ」と怒らなければならない。経済的再分配を放棄し、「中道」に逃げ込んだ野党は役割を果たしていない。
- 「前科者」としての歴史的自覚: 日本はパリ不戦条約(戦争違法化)を世界で最初に破った「最初の前科者」である。全員が「あれは常任理事国による国際法違反の侵略戦争だった」と客観的に総括できない限り、憲法9条という「Made in USAの鎖」を外す資格はない。
■ 【徹底解説】平和と人権を語ることはリベラルの「怠慢」である
道徳論に逃げ込む野党の致命的欠陥
昨今の政治論争を見ていると、リベラルや左翼を自称する連中がいかに「本来の仕事」をサボっているかがよくわかる。彼らは隙あらば「平和」だの「人権」だのという美辞麗句を並べ立てるが、はっきり言ってそれは左翼としての怠慢であり、堕落ですらある。政治の主戦場はそこではない。有権者が求めているのは、道徳の授業ではないのだ。
選挙で「平和と人権」を叫んでも、なぜ有権者に響かないのか?
データが示す有権者の「リアルな要求」

直近の衆院選の出口調査のデータを見てみれば一目瞭然だ。有権者が投票において最も重視した政策は何だったか。答えは「景気と雇用対策」、そして「年金と社会保障」である。これだけで過半数の50%を超えているのだ。
つまり、有権者の半分以上は明確に「お金の話」をしている。これに対して、「金の話ばかりして下品だ」などと顔をしかめるのは間違っている。有権者は極めて正しく、自分たちの生活の苦しさに直面しているだけだ 。そこに寄り添わず、頑固に「平和が〜」「人権が〜」と念仏のように唱え続けるのは、有権者に刺さらないばかりか、政治家としてのピントが完全にズレている証拠である 。
「人権」は商品ではない。家を建てるための「釘」である
前提を「売り物」と勘違いする愚かさ
誤解のないように言っておくが、平和や人権が大事ではないと言っているのではない。何よりも大事なものだ。しかし、それらは政治において「商品」ではなく「道具」や「前提」にすぎない 。
家を建てる時のことを想像してほしい。「この家、素晴らしいでしょう。住みたいでしょう」とプレゼンテーションすべき時に、「見てください、うちの使っている釘はこんなに綺麗なんです。1万本も使ってます!」と必死にアピールしている住宅メーカーがあったらどう思うか 。アホかと思われるだけだ。
人権や平和は、社会を構築するための「釘」である。それがなければ家は建たないが、釘を見せびらかして家が売れるわけではない 。政治家が前面に押し出すべきは、「有権者の財布をどう豊かにするか」「どうやって飯を食わせるか」という具体的な家の見取り図でなければならないのだ。
「中道」という幻想と、失われた「再分配」の議論
シャンタル・ムフが指摘する「ポスト政治」の悲劇
この問題の根底には、現代の左派が陥った構造的な病理がある。政治学者シャンタル・ムフの著書『左派ポピュリズムのために』にその答えが明確に書かれている 。

ムフは、現在の政治状況を「ポスト政治」と呼んだ 。グローバル化と新自由主義の波の中で、中道右派も中道左派も「金融資本主義」のルールを受け入れてしまい、政治的対立(フロンティア)が不明瞭になってしまったのだ 。その結果、左派政党は本来主張すべき「国家の介入」や「富の再分配」という武器を捨ててしまった 。
「中道改革」などと耳障りの良い言葉を名乗る勢力があるが、今の政治情勢において「中道」を名乗ることは、最も行ってはいけない道を選んでいることに等しい 。経済格差が広がり、労働者が苦しんでいる今、中道に逃げ込むことは労働者の切り捨てに他ならないからだ 。
左翼の本来の仕事は「財布から金を抜く奴」と戦うことだ
階級闘争のナラティブを取り戻せ
左翼のくせに「平和と人権」で仕事をサボるなと言いたい 。左翼の本来の使命とは、階級の解放を叫ぶことである 。経済的に虐げられたセグメントを解放するというナラティブ(物語)を語らずして、左翼としての義務は果たせない 。
労働組合が反戦運動をするのはなぜか。「平和が道徳的に正しいから」ではない。「戦争ほど過酷な労働環境を生むものはないから」である 。正々堂々と労働者の経済的な要求を代弁し、「お前たちの財布から不当に金を抜く奴ら」と戦うことこそが、本来の闘争の姿なのだ。
「戦争になるぞ」ではなく「月2万円抜かれるぞ」と怒れ
軍拡批判の致命的なズレ
昨今の防衛費増額や軍拡の議論を見ても、リベラル系のメディアや野党の批判は的を射ていない。「軍事予算を使いすぎだ」「戦争への道だ」と観念的な批判を繰り返すばかりだ 。
そんなフワッとした道徳論ではなく、もっと血の通った「銭の話」をしろ。「中国の脅威はわかる。安全保障が重要なのもわかる。しかし、そのためにあんたの財布から毎月2万円ずつ税金として抜かれていくんだぞ。それで生活できるのか?」と有権者に突きつけるべきなのだ 。軍拡を「命の危機」としてではなく、今そこにある「生活の危機(増税)」として語らなければ、誰の心にも響かない。
憲法9条は「世界最強のライフハック」である
イデオロギーを捨て、実利のツールとして使い倒せ
左派は憲法9条を神聖なイデオロギーとして崇めがちだが、これも間違っている。憲法9条は、極めて実用的で便利な「道具」として評価すべきだ 。
アメリカなどの同盟国から「一緒に戦争に行こうぜ」と誘われた時を考えてみてほしい。日本は「行きたいのは山々なんだけど、100年前にアホなことして迷惑かけたから、手足を鎖で縛られてるんだわ。ごめん、行けない」と堂々と断ることができる 。
しかもその手足に巻かれた鎖をよく見ると、小さな字で「Made in USA」と書いてあるのだ。これほど便利な免罪符はない。この鎖のおかげで、他国の戦争に巻き込まれて血を流すこともなく、莫大な軍事費を浪費することもなく、戦後日本は平和に「銭を貯める」ことができたのだ 。
共産党の「自衛隊活用論」に見る、究極の憲法リアリズム
「反対していたからこそ守る」という逆説の論理

この「憲法を道具として使い倒す」という点において、実は共産党の歴史的転換が良い例になる。昨今、共産党は「自衛隊は違憲だが、急迫不正の事態には活用する」という現実路線を打ち出しているが、これをご都合主義だと笑うのは浅はかだ。ここには強烈なリアリズムと、憲法制定時の意外な歴史が隠されている。
1. かつては「軍隊保有」を叫んでいた 意外に知られていないが、憲法9条の審議当時、共産党は「自衛権(軍隊)を持つべきだ」と主張し、なんと9条に反対していた。「人民が武装して祖国を守る権利がある」というのが当時の彼らの論理で、戦力を放棄するのは間違いだと考えていたのだ。
2. 憲法成立後の鮮やかな「逆転」 しかし、結果として「戦力不保持」を定めた9条が成立した。ここからの彼らの振る舞いが興味深い。彼らは「決まったルール(憲法)には従う」という立場へ即座に転換し、「憲法に書いてある通り、自衛隊は違憲である」と主張し始めたのだ。これは一見矛盾に見えるが、法治主義としては極めて筋が通っている。「俺たちは軍隊が欲しかったが、ルールでダメだと決まった以上、そのルールを厳格に守れ」というわけだ。
3. 政権担当能力を示すための「活用」 そして現在の「活用」論だ。これは、もし共産党が政権に参加した場合の現実的な対応策である。大災害や他国からの侵略があった際、「違憲だから自衛隊は動かさない」では国民を守れず、政権として機能しない。だからこそ、**「違憲という法解釈は変えないが、存在することは認めて活用する」**という「共存」の期間を設ける方針をとっている。
つまり、「元々は軍隊肯定派だった」という歴史的背景、「現行憲法を厳格に守る」という姿勢、そして「政権担当能力を示すためのリアリズム」が組み合わさった結果が今の活用論なのだ。これこそ、イデオロギーよりも実利と論理を優先した「憲法の道具化」の好例と言えるだろう。
手足を縛ったからこそ、日本は戦争で死なず「蓄財」できた
9条がもたらした最大の恩恵
「一緒に戦争に行けない」という建前を維持することで、我々はどれだけの命と税金を守ってきたか。「鎖を外して一緒に戦おう」という誘いに対して、「いや、この鎖のおかげで死なずに済むし、銭も貯まって腹いっぱい飯が食えるから、このままで行こう」と返すのが、最も賢い国家運営である。9条は平和のシンボルである前に、究極の「コストカット手段」なのだ。
自民党改憲案の「理想形」は、実は大韓民国憲法?
世界の憲法のスタンダードと日本の特殊性
自民党などで改憲を叫ぶ人々は「侵略戦争は否定するが、自衛のための軍隊は必要だ。だから9条2項を変えたい」と主張する 。

しかし、彼らが理想とする「自衛隊を明記しつつ侵略戦争を否定する憲法」は、実はすでに隣国に存在する。大韓民国憲法(第5条)である 。

韓国憲法には「侵略戦争を認めない。国軍は国家の安全保障と国土防衛を遂行する」と明確に書かれている。自民党の改憲派が目指しているのは、要するに「韓国の憲法そっくりにしたい」ということだ。
なぜ世界中の憲法が判で押したように「侵略戦争の放棄」を謳っているのか。それは1929年に締結された「パリ不戦条約」によって、国際法上、戦争が非合法化されたからだ 。どこの国も条約を守るために、似たような条文を持っている 。では、なぜ日本「だけ」が9条という特殊で厳しい制約を持たざるを得ないのだろうか。
日本は世界最初の「前科者」である(満州事変のリアル)
なぜ我々には「特別な鎖」が必要なのか
その理由は極めて重く、そして恥ずかしい歴史的事実にある。1929年のパリ不戦条約で「もう戦争は違法にしよう」と世界が合意したわずか2年後の1931年、率先してそれを破り、満州事変という侵略戦争を引き起こしたのが他ならぬ日本だからだ 。
我々は世界最初の「条約破りの前科者」なのだ。しかも当時の日本は、今のフランスやアメリカと同じ「国際連盟の常任理事国」という超大国だった 。世界のルールを守るべきトップの国が、自らルールを粉砕したのである。
よく「日本は経済制裁で追い詰められたから戦争に踏み切った」と擁護する者がいるが、あれは完全な嘘だ。満州事変の時点では経済制裁など一切されていない 。さらに日本は、条約違反をごまかすために、戦争ではなく「事変」という言葉遊びを使い、10年後の真珠湾攻撃の直前になってようやく「昔から戦争でした」と開き直るという、極めて卑怯な振る舞いをした 。
全員が「侵略戦争でした」と言えない社会に、軍隊を持つ資格はない
歴史的総括なき改憲の恐怖
この歴史的「前科」の自覚が、今の日本には決定的に欠けている。あの戦争を「無謀だった」「やってはいけない戦争だった」と反省する人は多い。しかし「なぜダメだったのか」と問うと、「アメリカのような強い国に歯向かったから」といったズレた答えが返ってくる。
そうではない。「常任理事国でありながら、自ら署名したパリ不戦条約を率直に破った、国際法違反の卑劣な侵略戦争だったから」なのだ 。この歴史的総括を、100人中100人が当たり前のように口にできる社会になって初めて、我々は「普通の軍隊」を持つ議論のスタートラインに立てる 。
自らの前科を直視せず、反省も曖昧なまま「鎖を外して普通の国になりたい」と叫べば、世界から「こいつらまたやらかす気じゃないか」と恐怖と警戒の目で見られるのは当然である 。
道徳を叫ぶのをやめ、「生活の防衛」のために戦え
冷徹なリアリズムで「金と命」を守り抜け
結論を言おう。左派やリベラルは、これ以上「平和と人権」という道徳の美酒に酔いしれるのをやめるべきだ。それは自己満足であり、有権者の生活を救う役には立たない。
今必要なのは、冷徹なリアリズムである。政治の現場で語るべきは、徹底した「経済の防衛」であり「財布の中身」だ。そして憲法9条は、崇拝の対象としてではなく、我々の血と税金を守り、他国の戦争への勧誘を躱すための「道具」として、骨の髄まで使い倒せばいい。
イデオロギーや観念的な道徳論を捨て去り、泥臭く「リアルな生活」を守る闘争(左派ポピュリズム)へと回帰すること。それこそが、今の絶望的な政治状況を打破する唯一の道である。

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