2026/1/3ネットで見かける「外国人こわいよね」ネタがいかにデマだらけであるか2分でわかる動画。
私が菅野完でございます。朝刊チェックの時間がやってまいりました。頑張っていかなあかんなぁ~言うてるところなんですけど。
本稿は、著作家・菅野完氏の鋭い分析に基づき、近年の兵庫県知事選を巡る一連の現象を深く掘り下げるものである。これは単なる地方政治の対立劇ではない。ネット社会が加速させる「情報の量による洗脳」という現代的な病理と、それに対して、社会が本来持つべき「正常な感覚」を取り戻そうとする人々の闘争の記録である。この兵庫の一事例は、情報が現実を歪めるメカニズムと、我々がその歪みに抗うための処方箋を、残酷なまでに明確に示している。
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1. 情報の量が生み出す「洗脳」の構造:なぜ人々は熱狂したのか
兵庫県知事選における斎藤元彦氏への一部の熱狂的な支持は、従来の政策論争やイデオロギーに基づく政治的動員とは全く異なるメカニズムによって引き起こされた。この現象、いわば「情報中毒」の症例を解剖することは、現代ネット社会における世論形成の危険な病理を解明する上で、避けては通れない鍵となる。人々はなぜ、そしてどのようにして、特定の物語へと熱狂的に傾倒していったのか。
「量の暴力」という本質
菅野氏は、この現象の本質を「高度なイデオロギー的共鳴ではない」と断じ、**「単に量の問題です」**と喝破する。特定のナラティブ(物語)がネット空間に圧倒的な物量で流通した時、人々は論理的に説得されるのではない。流通している情報がそれしか存在しなければ、環境的にそれに染まらざるを得なくなるのだ。選択の余地なく、日々浴びせられる情報によって思考のOSそのものが書き換えられていく。これが、菅野氏が指摘する「洗脳」の正体である。
メディア構造の悪用
この情報の物量作戦を、技術的かつ心理的に可能にしたのが、既存メディアとネットメディアの歪な対立構造であった。多くの人々が抱く「テレビは嘘をつく」という不信感を利用し、一部のYouTuberやネットメディアは、再生数を稼ぐために意図的にテレビ報道とは逆の主張を展開した。テレビが「A(斎藤氏は悪)」と報じれば、彼らは「B(斎藤氏は正義)」と叫ぶ。この単純な二元論に、多くの視聴者が思考停止状態で飛びついた。菅野氏は、この状況を**「テレビで言ってることの反対言うてたらほんまのことやと思ってるキチガイ」**と、極めて辛辣な言葉で表現する。オールドメディアへの不信が、新たな情報源への無批判な信仰へと転化した瞬間であった。
単純接触効果(ザイアンス効果)
この構造の中で、斎藤氏本人の露出は、その内容の是非を問わず増え続けた。菅野氏は、**「悪名は無名に勝る」**という言葉を引用し、この現象を説明する。たとえそれが批判や悪評であったとしても、圧倒的な量の露出は人々の認知度と関心を強制的に引き上げる。結果として、ネット上では「既得権益(テレビ・議会)にいじめられるヒーロー」という虚像が完成し、それが支持の土台となっていったのである。
このようにして形成された支持は、強固に見えて極めて脆い基盤の上に成り立っている。では、この強力な「情報の量による洗脳」という毒を、いかにして解毒することができるのか。次にその具体的な処方箋を見ていきたい。
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2. 「洗脳」からの脱却:高解像度の現実と「接点」の物量作戦
一度形成された強固な「洗脳」状態から、人々はどのようにして抜け出すことができるのか。菅野氏の分析は、単なる論理的な説得では不十分であり、より本質的なアプローチ、いわば「現実療法」が必要であることを示唆している。それは、低解像度の虚構を打ち砕く「高解像度の現実」と、物理的な「接点」の物量作戦である。
事例分析:「筆で一人の洗脳を解いた」
その有効性を物語る、象徴的な事例がある。ある元支持者は、当初「菅野完は立憲民主党の手先だ」というネット上の粗雑なデマ(低解像度の情報)を信じ込み、敵意を抱いていた。しかし、彼が偶然にも菅野氏の執筆した兵庫県の歴史や地形に関する緻密な文章に触れた時、状況は一変する。
そこに書かれていたのは、イデオロギー的なレッテル貼りとは無縁の、圧倒的な知識と洞察に裏打ちされたプロフェッショナルの仕事であった。この**「解像度の高い」**現実に触れた元支持者は、「ネットで聞いていた話と違う」と自らの認識の歪みに気づき、洗脳が解けたという。これは、プロによる質の高い仕事が、ネットで量産される低品質な嘘をいかに鮮やかに打ち破るかを示す好例である。
運動論としての「接点」の最大化
しかし、文章による説得は万能薬ではない。そこで菅野氏は、より普遍的で、誰もが実践可能な戦略を提唱する。それは、漫才コンビ・ミルクボーイの有名なフレーズを引用し、**「接点はなんぼあってもいいですからね」**という言葉に集約される。
社会に蔓延する虚構に対抗するためには、現実世界における物理的な「接点(コンタクトポイント)」を、圧倒的な物量で増やし続けるしかない。人によって何が「効く」かは予測不可能だ。ある人は文章で、ある人は街頭での怒号で、またある人は無言でプラカードを掲げて立つ人の姿を見て、ふと我に返るかもしれない。
有効な行動と無益な行動の峻別
この「接点」の物量作戦において、菅野氏は有効な行動と無益な行動を明確に峻別する。街頭に立つ、叫ぶ、プラカードを掲げる、ポスティングをするなど、現実世界で人々の五感に訴えかけるあらゆる行動は有効である。一方で、仲間内での議論に終始しがちなX(旧Twitter)スペースのような閉じた空間での活動は**「100%無駄」**であると断言する。重要なのは、まだ気づいていない他者の視界に入ることなのだ。
このように、洗脳を解く鍵は、質の高い情報という「質」の側面と、物理的な接点という「量」の側面の両輪から、現実を突きつけることにある。しかし、この戦いを効果的に進めるためには、その対立の構図そのものを正しく再定義する必要がある。
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3. 戦いの再定義:「反斎藤」ではなく「正常 vs 異常」の相克
この一連の現象を「斎藤派 vs 反斎藤派」というありふれた政治的対立の構図で捉えること自体が、本質を見誤らせる罠である。菅野氏が提示する新しい対立軸を理解することこそ、この問題の核心を掴む上で不可欠となる。これは、政策やイデオロギーの対立ではなく、より根源的な社会のあり方を巡る闘争なのだ。
ゴキブリのメタファー
菅野氏は、「反斎藤派」という呼称の不適切さを説明するために、痛烈な比喩を用いる。
「部屋にゴキブリが出た時、それを新聞紙で叩き潰そうとする人を『反ゴキブリ派』とは呼ばない」
この比喩が示すのは、目的の違いである。ゴキブリを駆除する人は、ゴキブリそのものに関心があるわけではない。彼らが望むのは、ただ**「平穏で清潔な生活(正常な状態)」**を取り戻すことだけだ。同様に、斎藤氏を巡る問題に対峙する人々の多くは、彼個人への関心からではなく、社会が健全な状態から逸脱していることへの危機感から行動している。
新たな対立軸の提示
この戦いの真の構図は、「斎藤派(異常者)」対「正常派(正常者)」「民主派」「良識派」、そして**「恥を知る派(知恥派)」**といった言葉を挙げる。これは、イデオロギー以前の、社会の根源的な良識や倫理観を持つ人々を指す言葉だ。
「異常」の可視化


一方で、支持層の一部が見せる行動は、この「正常」からの逸脱を如実に示している。菅野氏の元に届いたという、罵詈雑言だけが書かれた年賀状の事例は、その象徴である。社会通念上、新年の挨拶状に憎悪を記して送りつけるという行為は、明らかに常軌を逸している。これは単なる個人の品性の問題ではない。セクション1で論じたように、低解像度で敵意を煽る情報だけを摂取し続けた結果、社会通念というOSそのものが破壊された末路なのである。
このように対立軸を再定義することは、単なる言葉遊びではない。自らの運動の正当性が「特定の政治家への反対」ではなく「社会の正常性の回復」にあると明確に位置づける、極めて戦略的な行為なのである。では、その「正常」を希求する行動の、最も深い部分にあるエネルギーの源泉は何なのか。その答えは、ある一個人の劇的な体験の中に見出すことができる。

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4. 義憤の源泉:ある個人の変容を駆動させた3.11の原体験
なぜ一個人が、社会に現れた「異常」に対し、かくも激しいエネルギーを燃やして対峙するに至るのか。その根源を探る時、我々は菅野完氏自身の劇的な転身の物語に行き着く。それは、冷徹な論理が、目の前の理不尽な現実によって粉砕された瞬間を描き出す。この個人的な体験は、社会運動を駆動させる感情の本質を我々に教えてくれる。
変容前の冷徹な論理
驚くべきことに、東日本大震災直後、富裕層が多く住む南麻布に居を構えていた菅野氏は、現在の姿からは想像もつかない冷徹な適者生存論者であった。彼は当時、「金持ちや賢い人間は貴重な資源だから、危険があれば真っ先に逃げるのが当然だ」と考え、「逃げられない貧乏人は、知恵がないのだから死んだらええ」とさえ公言していたという。そこには、弱者への共感はなく、ただ冷たい資本主義の摂理があるだけだった。
価値観の崩壊:栃木での光景
その彼の価値観が180度転換する瞬間が、震災から約1週間後、仕事で訪れた栃木県で訪れた。
- 事実の描写: 彼は、富裕層が我先にと国外や西日本へ避難した後、その地に残された子供たちが、被曝線量を測定するための**「ガラスバッジ」**を首から下げさせられている光景を目撃する。それは、逃げる選択肢を持つ者と持たざる者の残酷なコントラストであり、彼の目には事実上の「生体実験」と映った。
- 感情の起爆剤: しかし、彼の思考を完全に停止させ、怒りの回路を焼き切ったのは、そのガラスバッジのストラップに印字された**「がんばろう日本」**という一文だった。
「実験させといて『がんばろう日本』て何言うとんねん」
この強烈な欺瞞と矛盾を目の当たりにした瞬間、彼の頭の中で何かが**「ブチッ」**と音を立てて切れた。論理も、思想も、すべてが吹き飛んだ。
変容の分析
この体験が示すのは、人の価値観を根底から覆すのは、科学的なデータや難解な理論ではないということだ。冷徹な理論という「低解像度の世界観」を打ち砕くのは、しばしば理屈を超えた「高解像度の現実」そのものである。栃木の子供の姿は、データや言説よりも雄弁に、社会の矛盾と欺瞞を突きつける一個の「現実」だったのである。この腹の底から湧き上がる**「理屈ではない、生理的な怒り」**こそが、冷笑的な傍観者を、当事者として行動する人間へと変貌させる最強のエネルギー源となるのだ。
この個人的な「覚醒」の体験は、社会全体の「正常化」を目指す現在の彼の活動と、確かに地続きである。そしてそれは、我々一人ひとりの行動が持つ可能性についての、重要な示唆を与えてくれる。

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5. 結論:あなたの行動が、誰かの「覚醒のスイッチ」になる
本稿で展開してきた菅野完氏の分析を総括すると、現代社会が直面する病理の核心が見えてくる。それは、ネット空間を飽和させる**「情報の量による洗脳」である。そして、それに対抗しうるほぼ唯一の有効な手段は、嘘を打ち破る「高解像度の現実」を提示すること、そして街に出て物理的な「接点」**を圧倒的な物量で作り出すことである。
菅野氏自身の劇的な変容が、栃木で偶然目にした子供の姿という、予測不能な「接点」によって引き起こされたように、我々の行動もまた、誰かにとっての決定的な瞬間となりうる。
あなたが街頭に立つその姿そのものが、通りがかる誰かにとっての「ガラスバッジ」になるかもしれないのだ。
何が、誰の心に響くかは誰にも分からない。だからこそ、行動の選択肢は多い方がいい。最後に、社会の「正常」を取り戻すための闘いへと歩みを進めるすべての人々へ、菅野氏の言葉を送りたい。
「何が効くか分からへんから、めいめいやったらええんです。もっとみんな街に出ましょう」
社会の健全性は、読者一人ひとりが、それぞれの場所で、それぞれの形で起こす小さな行動の総体によって、かろうじて保たれるのである。
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