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【第3回】娯楽としての政治と中間層の俗物根性

映画館で火災の映像を眺めながらシャンパングラスを掲げて談笑する、タキシードとドレス姿の男女の風刺画。
🎥 タイムスタンプ要約・インデックス(クリックで展開)
  • 47:32 [プロの美学] 弘兼憲史氏の特化戦略 / 大衆受けを捨てるビジネスモデル
  • 49:03 [比喩対比] トヨタ・ホンダ(ONE PIECEモデル) vs スズキ(軽トラ特化)
  • 50:35 [生存戦略] レクサスを絶対に作らないスズキの徹底した割り切り
  • 51:30 [価値設計] ダイハツの安易な薄利多売路線とは一線を画す誇り
  • 53:09 [城下町の裏切り] 広島のマツダ車、名古屋のテスラタクシーの衝撃
  • 56:05 [ロマンの粉砕] 「子供は自転車の前にロードスターに乗る」妄想と現実
  • 57:14 [土着の安堵] 長崎の三菱圧倒的シェアに見る本物の企業城下町の理想
  • 1:44:33 [病理の温床] 政治を娯楽として消費する中間層「竹」の精神構造
  • 1:45:55 [地続きの政治] チロルチョコ10円値上がりすら政治の決定という事実
  • 1:48:03 [俗物の象徴] ヤナセの車検代車ベンツEクラスに大はしゃぎするひろみ氏
  • 1:54:02 [歴史の暗黒] 1932年ベルリンのナチス台頭と現代ネット世論の不気味な相似
  • 1:57:25 [ボナパルティズム] マルクスのフランス小作農分析と孤立した個人の独裁希求
  • 1:57:47 [調整の回路] 剥き出しの個人を防ぎルール調整を学ぶ中間団体の必要性
  • 1:59:34 [欺瞞の告発] 中庸の美名で中間団体を破壊し独裁を舗装する創価学会批判
  • 1:59:53 [無法の極致] 斎藤元彦知事の前日記者会見というグロテスクな独裁者宣言

💡 導入:このコラムを100%味わいつくすために

たもっちゃん
たもっちゃん

「この第3回から読み始めてもらうのも一つの手ではあるんです。でもそれって、映画のクライマックスの爆破シーンだけを切り抜いて、ポップコーン片手にキャッキャ喜んでるようなもんでね。

目の前で大爆発してる、実生活が政治に左右されない中間層『竹』の俗物的な無関心、他者との泥臭い利害調整を担う『中間団体』の破壊、そして無法な独裁者をネットで面白がって喜々として歓迎するポピュリズムの温床」 の火力は伝わるやろうけど、「なんでこないなことになってしもたんや」っていう一番のホラー部分が抜け落ちてしまう。

そのホラーの正体、つまり「社会問題をすべてお行儀の良い『教育』に丸投げして本質から遁走する知的怠惰や、個人的な『1抜け』で女性大衆を裏切った先駆的自立女性の欺瞞、さらには傾いたシーソーの全長のど真ん中でバランスを保つ卑怯な自己保身を『中立』と偽る精神上の奴隷状態」については第2回で全部バラしてますんで。

あのね、基本となる読解力というものが、もう国全体で完全に欠如してるんですよ。会話の前提すら共有できへん不特定多数を相手に、これ以上何のロジックを積み上げろと言うんや、と。まともな教育を受けた大人から見れば、ただの質の悪い喜劇に過ぎませんからね。

別に強制はしませんけど、本気でこの件の現在地を知りたい人には、ちょっとだけ遠回りして第2回から目を通してもらう方が、結果的におもろいんちゃうかなって気はしますね。」


【結論】

実生活が政治に左右されない中間層「竹」の俗物的無関心と、社会的な利害調整を担う「中間団体」の破壊こそが、政治をスリル溢れる娯楽として消費し、無法な独裁者を喜々として歓迎するポピュリズムの温床である。自らを絶対的な安全圏に置き、法治主義の崩壊を対岸のエンタメとして面白がる俗物市民のありようは、1932年ベルリンでナチスの台頭に喝采を送った一般ドイツ市民の醜悪な精神構造と完全に相似している。

【ポイント3選】

  • ※特級比喩:ヤナセに高級輸入車メルセデス・ベンツを車検に出し、手配された代車が期待以上のEクラスであったことにネットで無邪気に喜び、「知事の所属政党が共産党になろうが自民党になろうが幸福の科学になろうが関係ない」と豪語する、当事者性を完全に欠いた中間層「竹」の俗物ライフスタイル。
  • ※比喩・論点:大衆受けを捨て、山間部の農業従事者や畑を這う軽トラ需要に狂気的に特化する「スズキ自動車」のプロのものづくり戦略。思想的にはクソと一蹴されつつも、ターゲット中高年の欲望をミリ単位で狙い撃ちし続ける弘兼憲史氏の漫画産業モデル。
  • ※ファクト:大阪維新の支持基盤は、沈む夕日を見るような歴史的生活感覚を持つ上町台地の旧住民エリアではなく、淀川以北など「よそから来た新住民」が移り住んだ居住エリア(アナログ時計 の文字盤で1時から5時、10時から12時のニュータウン地区など)に極限集中している。

娯楽としての政治と「竹(中間層)」の俗物根性——中間団体の破壊が招く独裁のメカニズム

大衆受けを捨てるプロの美学——弘兼憲史とスズキ自動車のターゲット特化戦略

弘兼憲史の描くストーリーや思想はクソや。そんなもん、思想的には一蹴してええ。ただな、ターゲットを明確に絞り切る漫画産業としてのプロの凄みだけは、これはもう絶賛せざるを得んのよ。 自動車産業で言うたら、るろうに剣心とか、銀魂とか、ONE PIECEがトヨタやホンダやとすれば、弘兼さんはスズキみたいなもんなんよね。 スズキはな、レクサスみたいな高級乗用車は絶対に作らんのよ。そういう見栄や肥大化した自己イメージとは、最初から無縁のところで生きとる。 ダイハツのように、安かったら嬉しいんでしょうみたいな、底の浅い薄利多売の路線にはもう行かない。そこには確固たるプロの価値設計があるんや。

世俗的な成功を収めながらも、その思想やストーリーテリングの底の浅さをクソだと一蹴される漫画家・弘兼憲史。しかし、話者はその作品群を単なる駄作として切り捨てるのは、プロフェッショナリズムの本質を見誤っていると指摘する。弘兼氏の真の凄みは、表現の崇高美などではなく、ターゲット読者の欲望と実需をミリメートル単位の精度で射抜く漫画産業としての徹底的な特化戦略にこそある。

この極めてプラグマティックなビジネスモデルは、日本のものづくりにおける特定の生存戦略と完全に相似している。すなわち、最大多数のユーザーに愛される万能なファミリーカーを作るトヨタやホンダが、少年ジャンプのメガヒット作である『ONE PIECE』や『銀魂』、『るろうに剣心』だとすれば、弘兼氏の立ち位置は、山間部や農作業の現場といった泥臭い実需に特化した「スズキ」の軽トラックや四輪駆動車そのものなのである。

高級ブランド「レクサス」を作らないというスズキの徹底した割り切り。それは、自らの領分を完璧に把握し、その枠内で最高価値を提供するプロの矜持そのものであると、菅野氏は分析する。自らの技術とリソースを、本当に必要とする顧客セグメントにだけ集中させ、そこで絶対的な信頼を勝ち取る。この美学は、余計な文学的野心を排し、中高年ビジネスパーソンの刹那的な実需にコンテンツを供給し続ける弘兼氏の割り切りと見事に重なり合う。

ここにあるのは、安さだけを絶対正義として売り捌く極端な薄利多売のダイハツ路線とも明確に一線を画す、誇り高き価値設計の意思である。ただ安いだけの道具ではなく、特定の過酷な用途(北陸の雪深い山間部や泥濘む畑地)において、他社製品では代替不可能な確固たる耐久性と機能美を備えているからこそ、顧客は納得して対価を支払う。プロフェッショナルなものづくりとは、大衆の機嫌を窺うことではなく、絞り込んだターゲットに対してこれしかないという機能を提供し続ける、冷徹な計算の帰結なのである。

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企業城下町への裏切られ哀歌——広島のマツダ、名古屋のテスラ、長崎の三菱

俺今まで車で強烈に裏切られたなと思ったのが2回あんねん。まずは広島にそんなにマツダが走ってないってこと。それと名古屋でタクシー拾ったらテスラやったってことですね。 俺はな、広島の子供は自転車の乗り方を覚える前に、マツダのユーノスロードスターの運転の仕方を覚えると思い込んでたからさ。現地に行って、普通に他社の車が溢れてるのを見た時は、ちょっとショックやったんすよね。 トヨタのお膝元であるはずの名古屋でや。車種なんか気にせんとタクシー拾って、2〜3台はテスラ車であることに気づかずに乗ってて、3台目か4台目に乗る時に、荷物をトランクに入れようとしたら、トランクの開き方がおかしい。そこで初めてこれテスラやんけ!って気づいた時の、あの強烈な裏切られ感。ジャパンタクシーかクラウンに乗っとくべき名古屋で、なんで外車の電気自動車に乗せられなあかんねん。 長崎を訪れた時にな、街中を見たら圧倒的なシェアで三菱の車が走っとるのよ。その光景を見た瞬間に、体中から力が抜けて、思わず口から出たわ。ああ 三菱やんけって。ようやく俺の求めてた企業城下町の理想郷がそこにあった。

外部の生活者が特定の地域や組織に対して抱く、どこかロマンチックで勝手な幻想は、冷酷な現実のライフスタイルによって無残に裏切られる。あるメーカーの本拠地たる「企業城下町」を訪れれば、その企業の製品が道路を埋め尽くし、生活の隅々にまで浸透しているはずだという妄想は、実社会の冷淡な多様性の前にしばしば瓦解する。この哀愁と驚きに満ちた裏切り体験を、菅野氏は日常の移動空間における個人的なコメディとして、我々の認識のズレを鮮やかに暴き出す。

東洋工業、すなわちマツダの本拠地である広島に対する「広島の子供は自転車の乗り方を覚える前に、マツダのユーノスロードスターの運転の仕方を覚えると思い込んでいた」という極端な妄想は、自動車文化への過剰な憧憬が生み出したコミカルな誤認の最たるものである。しかし、菅野氏が実際に広島の地に降り立ってみれば、道路を走っているのは他社製の実用的なミニバンや軽自動車ばかりであり、期待した「マツダ一色」の光景は見られず、ただ冷徹な実用主義の日常が広がっている現実に大いなる落胆を禁じ得なかった。

さらに、日本最大の自動車帝国・トヨタのお膝元である愛知県名古屋市において遭遇した出来事は、妄想の裏切りを通り越した強烈なシステムエラーであった。名古屋の街中で拾うタクシーといえば、当然のようにクラウンやジャパンタクシーといったトヨタの技術の結晶であるはずだという絶対の信頼があった。ところが、車種を気にせずタクシーに乗り、2〜3台はテスラ車であることに気づかずに乗っており、3台目か4台目に乗る時に荷物をトランクに入れようとして、その特異なバックドアの開閉機構を目にした瞬間、それがまさかのシリコンバレー生まれの外車「テスラ」であることに気づかされる。この時の足元をすくわれるようなユーモラスな驚愕と裏切られ感は、お膝元すらもが外資本籍の電気自動車に侵食されているという、現代都市の予測不可能な変化のリアルな手触りであった。

しかし、これら二つの裏切りによる痛快な傷心を、一瞬にして癒やしてくれたのが長崎の街であった。長崎の港湾エリアを訪れた際、そこには外部者の期待を裏切らない、圧倒的なシェアを誇る「三菱」の車が道路をびっしりと埋め尽くしていたのである。企業城下町としての伝統とプライドが生活の細部にまで息づき、三菱重工の精神が街のインフラと完璧に同期している光景を目撃したとき、菅野氏はそれまでの落胆を霧消させ、「これぞ本物の企業城下町だ」という大いなる納得と深き安堵を覚えた。

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政治に用事がない「竹(中間層)」の俗物精神——チロルチョコから1932年ベルリンへ至る無関心の代償

政治に用事がない、自らの実生活が政治に左右されないと思い込んでいる、社会を松竹梅に分けた際の中間層竹の人々こそが、歴史的に最も喜んで、最も快く独裁を歓迎してきた精神構造の元凶なんですよ。 ひろみ@k0512S0311とかもう、その俗物根性の象徴やん。ヤナセに自分のメルセデス・ベンツを車検に出したら、代車でEクラスが来たってネットで無邪気に喜んどる。そりゃそうやろ、知事の所属政党が共産党になろうが自民党になろうが幸福の科学になろうが、自分の優雅な日常には何の影響もないんやから。政治をルックスや面白さだけで判断できる、極めておめでたい存在や。 お前がチロルチョコレートを買った時にな、昔みたいに10円で買われへんでも、それすらも政治の決定であり、税制や流通の産物やないかって。政治と生活は1ミリも離れてへんねん。 自分がドイツ人でな、迫害されるユダヤ人でも、同性愛者でも、家族に障害者がいるわけでもない一般市民やったらな、1932年頃のベルリンでナチス・ドイツが選挙で躍進していく光景は、めちゃくちゃおもろいエンタメに見えたはずや。すっとするな、話に乗ろうよ、って。そうやって独裁は歓迎されてきたんや。

実生活が知事の交代や政策の変遷によって直接的に脅かされることのない、松竹梅の「竹(中間層)」と呼ばれるセグメント。彼らこそが、政治から緊張感を奪い去り、単なるスリルやルックスを消費するエンターテインメントへと劣化させ、結果として歴史的な独裁体制を大歓迎してきた病理の温床である。この、日常の平穏という無菌室に安住する中間層の極めて俗物的なメンタリティは、社会の土台を静かに腐食させる。

ヤナセに自らの愛車たる高級輸入車メルセデス・ベンツを車検に出し、手配された代車が期待以上のEクラスであったことに無邪気に喜ぶネット上の斎藤知事擁護者(ひろみ@k0512S0311)の振る舞い。話者は、これを政治的無関心と俗物性の完璧なモニュメントであると烈烈に弾劾する。彼らにとって、県政のトップが誰になろうが、自民党が勝とうが、共産党が来ようが、あるいはカルト的な宗教団体が権力を握ろうが、自らの贅沢で瀟洒な日常は1ミリも揺るがない。この「政治に用事がない」という傲慢な当事者性の欠如こそが、社会倫理を踏みにじる無法な権力者への、浅浅な擁護を可能にしているのである。

政治は自分たちの生活とは関係のない、遠い雲の上のゲームであると思い込んでいる俗物たちに対し、日常の最末端に存在するチロルチョコという卑近な物質すらも、社会構造の産物であるという冷酷な地続き性を突きつけねばならない。かつて駄菓子屋で10円を握りしめれば手に入った小さなチョコレートが、今やその価格では決して買えなくなっている。その背景には、原材料費の高騰や為替レートの変動、流通インフラの地殻変動といった、すべて政治的な意思決定とマクロ経済政策が織りなす政治の決定、税制や流通の産物が張り巡らされている。生活の最も卑小な消費活動すらもが、国家の決定と不可分に連動しているのである。

この分断は、決して地域間の物理的な対立などではない。兵庫県知事・斎藤元彦をめぐる騒動において、地元メディアは旧五国(摂津、播磨、但馬、丹波、淡路)の地域対立になぞらえて「兵庫スラビア」的な分断だと報じたがるが、その実態は、生活実感と思想をめぐるより冷酷な階層的分断である。

その支持構造は、大阪における維新の会の躍進とも完全に地続きである。大阪維新の支持基盤をアナログ時計の文字盤に例えるなら、淀川以北などのよそから来た新住民が移り住んだ居住エリア(文字盤の1時から5時、あるいは10時から12時にかけてのニュータウン地区など)において、圧倒的な得票率を誇っている。一方で、古くから上町台地(夕陽丘、森ノ宮、玉造など)に根を張り、大阪湾に沈む夕日を見つめるような歴史的な生活感覚と生活基盤を持つ旧住民のエリアでは、この新興ポピュリズムに対する熱狂は驚くほどに低い。日常の移動に阪急電鉄の神戸線や宝塚線を利用し、そこに乗って大阪梅田に通勤する中流以上の世帯、あるいは女子高生の半分近くが不自然な標準語を喋るような、土着の泥臭い関係性を失った無菌室の生活者(竹の層)こそが、政治をスリルあふれるエンタメとして消費し、破壊的なパフォーマーを喜々として支持しているのである。

自らが社会的迫害の当事者にはなり得ないという当事者性の完全な欠如がもたらす熱狂こそが、1932年のベルリン(ナチス台頭前夜)に一般のドイツ市民が抱いた面白さや爽快感と、寸分違わず一致する全体主義の危険な本質である。ナチスが急進的に既存の秩序を破壊し、スピード感のある政治をアピールしたとき、自分がユダヤ人でも、同性愛者でも、障害者でもない一般の中間層市民にとって、それは自らの生活を1ミリも脅かすことのない、極めてすっとするエキサイティングなエンターテインメントに映ったはずだ。今、斎藤知事の冷酷で執拗なパフォーマンスをネット上で面白い、既得権益と戦っているとはやし立て、熱狂的に支持しているネットの群衆は、1932年のベルリンでナチスの行進に喝采を送った俗物市民の、醜悪極まりない現代的クローンなのである。

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剥き出しの個人を救う「中間団体」の絶対的必要性——組織の破壊が舗装する独裁への直通道路

他者との組織的、階級的な繋がりを持たず、社会的な連帯から放り出されて剥き出しになった個人はな、最後には国家と直に向き合うことになって、独裁しか求めなくなるんですよ。だからこそ、労働組合や業界団体のような中間団体が絶対的に必要なんや。 日本国憲法はな、参議院の全国比例区などのインフラを通じて、剥き出しの個人が国家と直接衝突するのを防ぎ、職能団体や地域団体といった中間団体を介在させて独裁の出現をシステム的に阻止するように、極めて緻密に設計されとる優れたインフラなんや。 極右も極左もない中庸なんていう耳障りの良い美名を掲げながらな、実際には社会から労働組合や業界団体といった泥臭い利害調整の場(中間団体)を破壊し、個人の周囲を無菌室化することで、結果的にポピュリズムと独裁への道を平坦に舗装しとるのが創価学会という巨大宗教組織の欺瞞や。中間団体をなくして剥き出しの個人を作ることが、どれほど独裁への直通道路になってるか分かっとんのか。 前日の記者会見で見せた斎藤元彦知事のあの態度はな、まさにこの無関心で愚俗な竹の層に背後から支えられた独裁者宣言そのものやんけ。法治主義も、公益通報者保護法も、近代的コモンセンスも全てを嘲笑い、踏みにじる。これほどの無法が許される社会は、もう民主主義の体を成してへん。極めて異常な、底が抜けた事態が、いま目の前で起きとるんや。

人間が他者との組織的、階級的な横の繋がりをすべて切断され、国家の巨大な権力機構の前にたった一人の剥き出しの個人として放り出されたとき、社会は必然的に独裁へと回帰する。かつてカール・マルクスがフランスの小作農(分割農地農民)のバラバラに孤立した状態を分析し、彼らが自らを組織化できないがゆえに強力な独裁者(ボナパルティズム)を希求せざるを得なかった歴史的真実を解き明かしたように、組織的繋がりを持たない中間層「竹」は、最後には強権による支配しか求めなくなる。自己完結した無菌室の「竹」は、自分の生活が他者との利害の「調整」と「ルール」によって成り立っているという生々しい民主主義の原則を学ぶ機会を失っている。

この、個人と国家の間に立ち、他者との泥臭い利害調整の回路として機能する労働組合や各種業界団体などの「中間団体」こそが、剥き出しの個人が独裁を求める暴走(ポピュリズム)を防ぐための、民主主義において絶対的に不可欠な社会基盤である。日本国憲法、および参議院の全国比例区という制度設計は、この中間団体の介在を極めて強く意識し、個人が国家の前に孤立して放り出されるのを防ぐために構築された、驚くべきインフラ・制度である。

ところが、極右と極左がない中庸という耳障りの良い美名を掲げ、社会の無菌室化を推し進めながら、実際には人々の生活を支える労働組合や業界団体などの中間団体を根こそぎ破壊・解体してきた創価学会の欺瞞は、独裁への道を平坦に舗装した最大の戦犯として強く弾劾されねばならない。社会を無菌室のように漂白した結果、個人を組織的繋がりのない剥き出しの個人へと解体し、全体主義とポピュリズムの温床を耕し続けたのである。

そして、その剥き出しの個人と、政治に実用のない「竹」の層が、最悪の形で結託して生み出されたのが、前日の記者会見における兵庫県知事・斎藤元彦氏のあのグロテスクな態度である。自らの職務の生命線である法律すら「知らない」と平然と言い放ち、通報者を社会的に探索し抹殺することを「違法ではない」と言い張る知事。その無法を、ネットで「すっとする」「知事は嵌められた」と面白がる「竹」の俗物たち。これこそが、中間団体が破壊され尽くした無菌室の末路であり、近代の法治主義がポピュリズムという快楽的なエンタメによって内側から溶解していく、恐るべき魂の殺戮現場そのものなのである。

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💡 編集後記:もう一段深い核心へ

たもっちゃん
たもっちゃん

「ここまで読んで、なるほど、実生活が政治に左右されない中間層『竹』の俗物的無関心や、他者との泥臭い利害調整を担う『中間団体』が破壊された結果、剥き出しの個人が政治をスリル溢れる娯楽として消費し、無法な独裁者を喜々として歓迎するポピュリズム(ボナパルティズム)の病理が分かった」 で満足してページを閉じるなら、そら別に構いません。一つの事実ではありますからね。

ただ、権力側が何の抵抗も受けずに、「中庸という耳障りの良い美名の下で労働組合や業界団体などの中間団体を根こそぎ解体し、個人を孤立させて独裁への直通道路を平坦に舗装するというシステムバグ をリングのど真ん中で続けたら、次は何が起きるか。政治の世界の「知性の劣化」が、さらに「法治主義や公益通報者保護法という国家の基本法すら平然と無視し、他人の『目的』を主観で決めつけて生きた人間を守る法的義務そのものを全否定する、恐るべき知性の崩壊と『ヤクザ以下』の無法」にまで波及していくんです。

公益通報者保護法を担当していた内閣府特命担当大臣・高市早苗が閣議決定を経て自ら署名し、通報者探索を明確に「違法」と断定した政府答弁書。それを完全無視して通報者を自死にまで追い込んだ知事の暴挙を、高市氏を「保守の希望」と崇拝する熱狂的支持者たちが五重の矛盾を抱えながら盲目的に擁護する、あの奇怪極まるカルト的知性の崩壊の正体とは一体何なのか?

「ボケ斎藤元彦はスケベの女たらしで、毎日秘書の下着(パンツ)の中に手を突っ込んでまさぐり倒してけつかる」という罵詈雑言の下品な告発と、「拝啓、梅も盛りとなり……女性職員の下着の中にお入れ遊ばし立て祭りて」という候文で清書された格式高い通報。表現の表層的な品格に天と地ほどの差があっても、セクハラという「客観的な告発事実」において完全に100%同一の等価物であると、なぜ現代人は理解できず、言葉遣いだけで「これは怪文書だ」として探索・処分を正当化してしまうのか?

口の周りを揚げ油でベッタベタにし、服にパン粉を大量に付着させ、手には食べかけのアジの尻尾を握りしめながら「俺が食ったのはアジではなくイカであり、入り込んだのは田中さんの家ではなく鈴木さんの家だ。事実と異なる重大な嘘があるからデマだ!」と喚き散らす「アジフライ泥棒」の屁理屈を、ネットの擁護派たちが「知事の言う通り真っ赤な嘘を暴いた!」と大喝采して通報者を村八分にする、あの世にもグロテスクなすり替えの心理構造とは何なのか?

さらに、『樅ノ木は残った』の原田甲斐、忠臣蔵の大石内蔵助、そして『松浦の太鼓』の松浦の殿様。かつて日本人が歌舞伎や文学という伝統教養を通じて300年間培ってきた、他人の「真意(目的)」は現象を主観で切り取っただけでは絶対に測れず、事後の客観的な検証プロセスを待つしかないというホモ・サピエンスの知性を、なぜ我々は完璧に忘却し、自己の主観だけで「不正の目的」と決めつける動物以下の無法に堕ちてしまったのか?

事実を認めれば責任問題が発生する、かと言って認めなければ論理が完全に破綻する。もうね、脳内OSが完全に処理落ちを起こしてブルースクリーンになってるわけですよ。バグだらけの仕様書をリングのど真ん中で振り回してる姿は、ハッキリ言って哀れですらありますね。そんなひん曲がった個人の主観データなんか、何一つ実体(サブスタンス)の補強になりません。テレビやYouTubeが流すノイズをただコピペして、さも深遠な独自見解であるかのように装飾する、その空虚さに、自分で共感性羞恥は覚えないんですかね。

この次の地獄のフェーズについては、続く第4回でみっちり解剖してます。今の惨状を「中間層『竹』の政治的無関心や、中間団体の破壊が舗装する独裁への直通道路」 だけで終わらせず、もう一段深く知りたいという奇特な方は、そのまま第4回も覗いてみてもらうと、より絶望の解像度が上がるんちゃうかなと思いますわ。


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