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【第2回】自立の幻影と「中立」という自己保身

シーソーの支点に立ち、重い石と釣り合おうとするスーツ姿の人物を描いた、中立という名の卑怯な自己保身を表現した画像。
🎥 タイムスタンプ要約・インデックス(クリックで展開)
  • 17:18 [批判] 教育の生ぬるい綺麗事の完全否定 / 【定義】蔑みを絶対前提とする「啓蒙」のエッジ
  • 20:12 [分析] 上野千鶴子が50年間売れ続ける理由としての「相手を馬鹿にする啓蒙芸」 / リベラル敗北論
  • 21:15 [背景] 『阿修羅のごとく』と上野千鶴子『家父長制と資本制』が台頭した1970年代末の混沌構造
  • 22:14 [弾劾] 先駆的自立女性(向田邦子・桐島洋子ら)の個人的脱出「1抜け」という残酷な裏切り
  • 27:45 [歴史] 『クロワッサン』症候群の終焉と、社会に敗北した女性たちの空虚を埋めたトレンディドラマの台頭
  • 36:31 [批評] 柴門ふみ原作『東京ラブストーリー』と鈴木保奈美の「セックスしよう」に宿る唯一の革命的抵抗
  • 45:08 [検証] 天才脚本家・坂元裕二の妥協 / 革命家リカのトゲの去勢と「関口さとみ」化(テストの失敗)
  • 29:53 [糾弾] 「距離的等間隔」を中立と勘違いする卑怯な自己保身 / 【定義】傾いたシーソーの軽い方に立つ「真の価値中立」
  • 34:08 [弾劾] 他者との距離でしか己を規定できない、自律的知性を完全に去勢された「精神上の奴隷」

💡 導入:このコラムを100%味わいつくすために

たもっちゃん
たもっちゃん

「この第2回から読み始めてもらうのも一つの手ではあるんです。でもそれって、トレンディドラマのきらびやかで華やかな恋愛劇だけを見てキャッキャ喜んでるようなもんでね。

目の前で大爆発してる、「社会問題をすべて『教育』に丸投げする世間の生ぬるい綺麗事や、個人的な『1抜け』で女性大衆を裏切った先駆的自立女性の欺瞞、さらには不均衡なシーソーのど真ん中でバランスを気取る『自称中立派』の卑怯な自己保身」の火力は伝わるやろうけど、「なんでこないなことになってしもたんや」っていう一番のホラー部分が抜け落ちてしまう。

そのホラーの正体、つまり、「洋服のボタンという極めて不条理なシステムによる自己虐待的な身体管理、ポートアイランドというインフラ建設がへし折った1000年の景観力学のねじれ、そして阪急沿線の若い世代における日常言語の去勢に見る、土着の深遠な階層分断」については第1回で全部バラしてますんで。

あのね、そんなひん曲がった個人の主観データなんか、何一つ実体(サブスタンス)の補強になりません。テレビやYouTubeが流すお行儀の良いノイズをただコピペして、さも深遠な独自見解であるかのように装飾するその空虚さに、自分で共感性羞恥は覚えないんですかね。

別に強制はしませんけど、本気でこの問題の現在地を知りたい人には、ちょっとだけ遠回りして第1回から目を通してもらう方が、結果的におおきにおもろいんちゃうかなって気はしますね。」


【結論】

社会問題のすべてを「教育」に丸投げする世間の生ぬるい綺麗事を全否定し、相手に対する徹底的な蔑みを前提とする「啓蒙」の暴力的なエッジこそが言論を駆動させると論じる。さらに、戦いを放棄して個人的アウフヘーベン(1抜け)を遂げた向田邦子・桐島洋子らの限界と裏切りを告発し、男社会への全面降伏として台頭したトレンディドラマの敗北構造を暴く。そして、他者のポジショニングからの等間隔を中立と偽り保身に走る人々を「精神上の奴隷」と断罪し、不均衡なシーソーの軽い方に自らの重みを投じる能動的介入こそが「真の価値中立」であると喝破する。

【ポイント3選】

  • ※特級比喩:飲酒運転を撲滅するために「酒の販売自体を全面的に禁止・撤廃する」ような極端な強硬措置を取らなければいかなる社会問題の根絶も不可能であり、また、社会構造改革の戦いを諦めた女性たちが男社会全体を「お股で優しく丸ごと包み込んでしまおう」とした白旗宣言こそが、ダブル浅野に代表されるトレンディドラマ流行の醜悪な本質である。
  • ※比喩・論点:傾いたシーソーの全長のど真ん中に立ってバランスを保ち、それを「客観的で偏らない中立」と偽るポジショニングは、自ら判断し当事者として責任を背負うことから逃走する「単なる卑怯な自己保身」に過ぎず、真の価値中立とは、シーソーが大きく非対称に傾いている時にそれを水平に保つため、あえて「軽い方(弱い立場、虐げられている側)」に自ら飛び乗る能動的で知的な戦闘行為である。
  • ※ファクト:上野千鶴子氏は「相手を徹底的に馬鹿にする(啓蒙する)」ことで50年間売れ続け、向田邦子氏や桐島洋子氏ら先駆的女性たちは個人的な「1抜け」で男社会の抑圧構造から脱出し、取り残された女性大衆を裏切った。1980年代半ばの男女雇用機会均等法成立前後で『クロワッサン』症候群が描いた自立の夢は完全に破綻し、その敗北の空虚を埋めたトレンディドラマの歴史において、柴門ふみ氏が描いた赤名リカ(鈴木保奈美氏)の「セックスしよう」というセリフは唯一の革命的抵抗だったが、天才脚本家・坂元裕二氏(森口瑤子氏と結婚)がドラマ版後半でリカの革命的なトゲを去勢して従順な「関口さとみ」の文脈に着地させたことは、フェミニズム的な社会的実験において「失敗」を意味する。

自立の幻影と「中立」という自己保身——啓蒙を捨てたフェミニズムの敗北と精神上の奴隷

[🔥シリアス本線] 教育という「綺麗事」の完全否定と、蔑みを伴う真の「啓蒙」のエッジ

教育ってどこだよ。お前無理ですよ。教育でなんかなんとかならんのです。 飲酒運転を撲滅しようと思うと酒売るのやめようって話と同じですよ。 啓蒙という言葉そのものに入ってるようにあの相手に対する蔑みがあるんです。お前ら愚かな者たちよという前提に立つべきんです。 上野千鶴子がなぜ売れ続けるかってね、相手のこと馬鹿にしてるから(啓蒙しているから)です。リベラルが選挙に勝てないか言うたらね、相手のこと馬鹿にしてないからですよ。 人権の話してわからん。群馬の人間出てきた。お前は群馬の人間やから分からへんねんて言ったってええねんて。法治主義の話をして分からへんかったらお前は兵庫県民やから分からへんねんって言うたってええねん。

菅野氏は、地方自治の機能不全や山積する社会問題のすべてを「教育の不徹底」に丸投げし、お行儀の良いアプローチによって万事が解決すると宣う世間の生ぬるい綺麗事を、このように一瞬で一蹴する。

この教育万能論の卑屈な本質は、発言している傍観者自身が「自分は十分にまともな教育を受けた知的強者である」という特権階級の椅子に傲慢に腰掛け、他者を教化してやるという高慢な自己満足の免罪符を吐き出しているに過ぎない。

歴史をいかに冷徹に紐解こうとも、過去数千年の間に、構造的な社会の歪みや土着の利害対立が、生温い「教育」だけで根本的に解決された事実などただの一度も存在しないのだ。

現実の生々しい政治力学や利害調整の痛みから目を背け、誰も傷つけず誰も加害しない無害な「教育」という記号に逃げ込む言説は、最も退屈で無力な幻想であり、知的怠惰の極みであると菅野氏は断言する。

教育という生ぬるい手段がいかに社会の病理に対して無効であるかを論証するため、菅野氏は極端かつ強烈な対比を提示する。

これは、飲酒運転という深刻な悪行を社会から完全に排除するためには、個人のモラルを育てる「教育」などという生温い対策ではなく、酒の販売そのものを全面的に禁止・撤廃するような暴力的な強制措置こそが有効であるという冷酷な比喩である。

にもかかわらず、リベラル層や無難な知識人は「教育を施そう」という誰も傷つけないお仕着せの言葉に安住し、社会構造の根本を叩き壊して変革するような痛みを伴う闘争から卑怯にも遁走し続けている。

社会を実際に動かし、不均衡な現実を強引に是正する真のダイナミズムは、万人にお行儀良く受容される優しいパッケージなどではなく、現実に牙を剥いて強制的な介入を試みる政治的意思のみである。

菅野氏は、大衆の怠惰と無知を暴力的に破壊するために必要なのは、他者に対する徹底的な「蔑み」を内包した「啓蒙」の鋭利なエッジであると主張する。

そもそも「啓蒙」という概念そのものは、光を当てる側と闇に沈む側という非対称性、すなわち「お前らは何も分かっていない愚かな存在だ」という絶対的な上下関係の傲慢さを前提にしなければ機能しない。

この、相手を見下すヒリヒリとするような蔑みの緊張感を欠いた言説は、いかに美しい正論を並べたところで、大衆の眠れる脳髄を揺さぶるエッジとなり得ない。

綺麗事のオブラートをすべて引き剥がし、知的傲慢さを引き受けてでも他者の無知を徹底的に断罪する覚悟こそが、言論に本物の社会的影響力を担保するのである。

社会学者でありフェミニストである上野千鶴子氏が、50年もの長きにわたって売れ続け、言論界の絶対的な勝者として影響力を維持している最大の秘密を、菅野氏はここに求める。

上野氏は、大衆に寄り添うお行儀の良い妥協のメッセージを並べるのではなく、相手を徹底的に馬鹿にする「啓蒙という名の高度なアクロバティック芸」を、この50年間一貫してステージの上で繰り出し続けてきた。

対照的に、大衆に言葉が届かず選挙や言論戦で敗北を重ねている現代のリベラルが致命的に弱いのは、この「相手を馬鹿にし、見下す啓蒙のエッジ」を完全に去勢され、他者に無難に媚びているからである。

他者の無知を突き放す傲慢さを恐れ、相手と等距離に並ぼうとした言説は、もはや知的緊張感を喪失した自己満足の独り言へ堕落するほかないのだ。

菅野氏は、普遍的な人権論を理解できない「群馬」の人間や、法治主義のイロハを理解できない「兵庫県民」という具体的な地域の大衆を、冷酷な毒舌で突き放す。

この過激な表現は、単なるお笑い的な地域いじりや差別的な野次などではなく、自律的知性を完全に去勢された蒙昧な大衆を「啓蒙」するための、絶対的前提としての「相手に対する徹底的な蔑み」を体現したものである。

地方のぬるま湯的な無知に対して、「その程度の知性だから話が通じないのだ」と言い切る傲慢さこそが、眠れる大衆の目を強引に開かせる切実な刃となる。

対話の前提となる最低限の理性すら持たない者たちに対し、等しく理性的な対話が可能であると期待すること自体の欺瞞を、この鋭利な告発が暴き立てているのだ。

啓蒙(けいもう)とは、人々が理性に基づいて自立的な思考を行えるよう、無知や偏見、因習から力強く解放し、正しい知識や価値観を授けて目を開かせることです。本来、知的上下関係や強烈なエッジを内包する言葉です。

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[🔥シリアス本線] 自立女性の個人的脱出(1抜け)という裏切りと、トレンディドラマが鳴らした敗北の「白旗宣言」

白人の男と結婚するという最悪の、最悪の裏切りをするわけ。 ダブル浅野が流行ったのは…奴隷として女が生きていくしかなくなってからトレンディドラマというのが流行ったんです。 トレンディドラマというのはまさにその女性…メディアが作る女性像の中での白旗宣言やったんですよ。男社会をお股で包み込もうというその、白旗宣言やったわけですよ。 東京ラブストーリーの鈴木保奈美の「セックスしよう」は唯一抵抗した事例なんですよ。リカは革命家なんですよ。

テレビドラマ『阿修羅のごとく』が放送されていた1970年代末から80年代初頭の混沌期、そして上野千鶴子氏の名著『家父長制と資本制』が登場した時代、メディアは「自立した新しい女性像」を盛んにもてはやした。

しかし、そのアイコンとして祭り上げられた向田邦子氏や桐島洋子氏ら、今や60代、70代となった先駆的な女性たちの限界を、菅野氏は容赦なく告発する。

彼女たちの憧れの象徴であった桐島洋子氏は、最終的には白人の男性と結婚して男社会の抑圧構造そのものの外部へと個人的にアウフヘーベン(いわゆる1抜け)を遂げて逃亡した。

自立のヒロインでありながら「己の卓越した才覚だけで抑圧構造を出し抜き、自分一人だけが安全地帯へと脱出する」という生き方は、戦いの現場に取り残された無数の女性大衆に対する、最も冷酷で残酷な「最悪の裏切り」に他ならない。

構造全体を解体・変革する地道な戦闘を放棄し、個人の特権による脱出によって勝利をアピールする態度は、後に続く女性たちの解放の道を自ら閉ざす行為であったと断言される。

1980年代半ば、男女雇用機会均等法の成立前後、マガジンハウスの『クロワッサン』症候群が熱に浮かされて描いた「自立した女性の美しき夢」は完全に破綻した。

男社会の堅牢なヒエラルキーの中で「100点満点」を取って勝ち抜けていこうとする自立の生き方が社会的に敗北し、夢を絶たれた女性たちは、再び従属的な「奴隷」として既存の構造に順応せざるを得なくなったのである。

この決定的な社会的敗北の空虚と、変革への意欲を奪われた女性たちの絶望を埋めるための安易な消費型エンターテインメントとして台頭したのが、浅野温子氏・浅野ゆう子氏の「ダブル浅野」を擁したトレンディドラマだったのだ。

それは、社会の構造改革という過酷な戦いを全面的に諦め、飼い慣らされた消費の奴隷としての悦楽に耽溺していく、女性たちの実質的な敗北の記録であった。

菅野氏は、80年代末から流行したトレンディドラマの本質を、男社会の暴力的なシステムに正面から対峙することを諦めた女たちの「お股による全面降伏」の儀式であると看破する。

男社会の構造そのものを解体する知的な牙を去勢され、その強固なシステム全体をお股で優しく丸ごと包摂し、甘やかして共存しようとする恋愛至上主義のエンタメが社会を席巻した。

この安易な融和への退行こそが、日本のフェミニズム運動の息の根を止め、社会制度への妥協を決定づけた歴史的な転換点である。

対決から逃避し、お股による包摂という擬似的な優位性に逃げ込んだことで、社会構造の変革という大志は、華やかな恋愛劇の裏側へ完全に抹殺されたのである。

こうした「白旗宣言」の暗雲が垂れ込める時代にあって、原作者・柴門ふみ氏が描き、テレビドラマ版で鈴木保奈美氏が演じた『東京ラブストーリー』のヒロイン「赤名リカ」だけは、奇跡的な抵抗の光を放っていた。

リカは、既存の男社会が女性に要請する「従順さ」や「道徳」の枠組みを完全に無視し、己の欲望と自律性のみに従って行動する、正真正銘の「革命家」であった。

彼女が放った「セックスしよう」という剥き出しのセリフは、男の欲望に規定される受け身の存在であることを拒絶し、主体的・能動的な個人として男社会と対峙した唯一の革命的抵抗の事例である。

彼女は、社会制度に従順に従い、男の庇護を内面化する「関口さとみ」的な役割を断固として拒絶し、自らの意思だけで世界に宣戦布告したのだ。

しかし、テレビドラマ版の脚本を手掛けた天才・坂元裕二氏は、このフェミニズム的社会的実験(テスト)において、批評的には手痛い「失敗」を犯したと菅野氏は鋭く指摘する。

後に女優・森口瑤子氏と結婚して大いなる社会的成功を収めることになる天才脚本家は、ドラマの後半において、リカの持つ革命的なトゲを去勢してしまった。

社会から要請された「従順で弱い女」の役割を忠実に内面化した「関口さとみ」の文脈へと、物語を安易に着地させてしまったのである。

上野千鶴子氏とフェミニスト心理学者・小倉千佳子氏による、知的妥協を一切許さない一貫した仕事や共著が「すべて面白い」と絶賛されるべき批評の強靭さに対し、このドラマ版の変遷は、社会制度への無残な妥協(テストの失敗)を示す悲劇的な敗北の証明なのである。

上野氏が50年間同じエッジを保ち続けているのに対し、ドラマは時代の限界に回収された。

『クロワッサン』症候群(クロワッサンしょうこうぐん)とは、1980年代に雑誌『クロワッサン』が提示した「結婚に縛られず自立して輝く女性」という生き方に憧れながらも、年齢を重ねる中で家庭を持たない将来に焦りや苦悩を覚えた女性たちの葛藤を指す言葉です。

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[🔥シリアス本線] 「距離的等間隔」という欺瞞の自己保身と、傾いたシーソーの軽い方に立つ「真の価値中立」

着物を着た男性が、赤いペンを指で持ちながらカメラに向かって何かを説明している様子。
シーソーがこうなってる時にここに立つことを中立やと思ってるんです。それは中立でも何でもないんです。自己保身って言うんです。 シーソーはこうなってる時の中立になろうと思う人はどこに立つか言うたらここに立つ(軽い方に立つ)んですよ。
書斎で赤い鉛筆を指先に乗せてバランスをとる、和服姿の男性の様子。
僕は価値中立だからです。 自分というものは何者であるかということは他者が規定する…そういう人生のことをね奴隷、精神上の奴隷と言うんです。

自身の「価値中立」の態度について、10年、20年と同じ一貫した論理を叫び続けている菅野氏は、世間の「自称中立派」の欺瞞を激しく糾弾する。

自由民主党、共産党、立憲民主党、国民民主党、社会民主党、参政党、日本保守党、あるいはローカルな地域政党や「チームみらい」といった、あらゆる政治的極から「等間隔の距離」を置くことだけで己の位置を規定し、それをもって「私はどちらにも偏らない客観的で中立な存在である」と宣う、地方の知識人気取りや田舎の凡庸な人々がその典型である。

このように、物理的・静的な距離の計算だけでポジションを決定し、傾いたシーソーの全長のど真ん中でバランスを気取っているような姿勢は、知的な中立でも何でもない。

自ら具体的な価値判断を下し、当事者として政治的責任を背負うことから逃避し、両成敗の安全地帯から高みの見物を決め込む「単なる卑怯な自己保身」に過ぎないのだ。

菅野氏が定義する「真の価値中立」とは、対立する両極から等間隔に逃走することではなく、非対称に傾いた世界を水平(ニュートラル)に保つために、あえて「軽い方」すなわち弱者、虐げられている側、不当に不利益を被っている立場へと飛び乗ることである。

強者が弱者を圧倒し、不均衡な支配が完了している社会構造において、物理的な「ど真ん中」に立ち続けることは、強者の暴力を無抵抗に追認し、固定化させる共犯行為に他ならない。

価値中立とは、決して静的な傍観ではなく、傾いた世界の不均衡を力学的に是正するために、あえて自らの身を軽い方に投じるという、極めて能動的で知的な戦闘行為でなければならないのだ。

他党や他者のポジショニングとの相対的な「等間隔」を測定することでしか、己のアイデンティティや政治的位置を決定できない人々を、菅野氏は「精神上の奴隷」として激しく弾劾する。

己の内部に絶対的な価値の尺度を持たず、他者の立ち位置の変遷によってのみ自らのポジションを規定され続ける生存態度は、自律的な知性を欠いた「精神上の奴隷状態」である。

彼らは他者に己の存在を規定され、コントロールされながら、「自分は中立である」という心地よい欺瞞の麻薬に溺れ、自律的な尊厳を白日の下で剥奪されていく。

真の知性とは、他者がいかなる極に立とうとも、己の冷徹な価値基準に基づいて一本の矢のように自立し、傾いた世界を力学的に水平に保存・是正するために自らの重みを投じる闘争の中にのみ宿るのだ。

価値中立(かちちゅうりつ)とは、単に全ての意見から同じ距離を置く「どっちもどっち」の傍観態度ではありません。社会的に力の不均衡が存在する際、中立を保つためには、あえて弱い側に荷担して不条理を是正する姿勢こそが動的かつ真理に誠実な価値中立と定義されます。

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💡 編集後記:もう一段深い核心へ

たもっちゃん
たもっちゃん

ここまで読んで、「なるほど、お行儀の良い『教育』という綺麗事を排し、傾いたシーソーの軽い方に自らの重みを投じる動的介入こそが真の価値中立であり、他者との等距離に安住する姿勢は『精神上の奴隷』に過ぎない」 で満足してページを閉じるなら、そら別に構いません。一つの事実ではありますからね。

ただ、当事者が何の抵抗も受けずに「社会の不均衡を完全に放置し、安全地帯から『客観的で中立なポジション』を気取って卑怯な自己保身を謀るというシステムバグ」をリングのど真ん中で続けたら、次は何が起きるか。政治の世界の「知性の劣化」が、さらに「実生活が政治に左右されない中間層(竹のセグメント)の俗物的な無関心と、泥臭い利害調整の中間団体を破壊して独裁者を喜々として歓迎する、現代のポピュリズムの病理」にまで波及していくんです。

ヤナセで手配された車検の代車ベンツEクラスにネットで無邪気に大はしゃぎしているような「政治に用事がない」俗物たちが、なぜ自ら全体主義の独裁者を喜々として大歓迎してしまうのか? 1932年のベルリンで、自分は絶対に迫害されないと高を括ってナチスの台頭を「すっとするエキサイティングなエンタメ」として消費した一般ドイツ市民と、現代のネット世論で无法な知事を面白がってはやし立てる群衆を繋ぐ、不気味な相似性の正体とは何なのか? そして、中庸という耳障りの良い美名を掲げながら、人々の生活を支える労働組合や業界団体などの中間団体を根こそぎ解体し、独裁への直通道路を平坦に舗装した最大の戦犯の正体とは一体誰なのか?

あのね、そんなひん曲がった個人の主観データなんか、何一つ実体(サブスタンス)の補強になりません。テレビやYouTubeが流すノイズをただコピペして、さも深遠な独自見解であるかのように装飾する。その空虚さに、自分で共感性羞恥は覚えないんですかね。

この次の地獄のフェーズについては、続く第3回でみっちり解剖してます。今の惨状を「フェミニズムの敗北や、距離的等間隔を中立と偽る自己保身の欺瞞」だけで終わらせず、もう一段深く知りたいという奇特な方は、そのまま第3回も覗いてみてもらうと、より絶望の解像度が上がるんちゃうかなと思いますわ。」


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