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【第2部】辺野古転覆事故への同志社指導で見えた文科省の自殺行為――「自民党=国家」と錯覚した役人どもが自らハメた政治的色彩の罠

【構図とレイアウト】 画面中央: 巨大な天秤(ジャスティス・スケール)が配置されているが、そのバランスは完全に崩壊してへし折れている。 天秤の左側: 9年前の「森友学園(塚本幼稚園)」の光景。軍服を着せられた幼児のシルエットと「安倍総理頑張れ」の文字が記されたDVDが乗っているが、文科省の重い「不介入」のハンコによって不自然に黙殺されている。 天秤の右側: 「同志社大学」のレンガ造りのキャンパスと、背景に広がる「辺野古の青い海(公共事業の土砂投入現場)」。ここに文科省の「政治的中立性違反」という真っ赤な警告状がパキパキに突き立てられ、天秤ごと自壊している。 背後の影: 自民党の党大会で制服を着て歌わされている自衛官たちの無機質なシルエットが、巨大な影となって行政の二枚舌を嘲笑うように浮かび上がっている。 【色調とカラーパレット】 官僚機構の冷酷さと冷徹なロジックを象徴する「ディープネイビー(紺色)」と「スレートグレー」をベースにしつつ、文科省の暴走指導を告発する「パキパキとした警告の赤(警告色)」をアクセントとして効果的に配置。 辺野古の海の青は、美しい自然としての青ではなく、国家が管轄する無機質な「公共事業(コンクリートの灰色)」と混ざり合う、どこか冷ややかなトーンに抑える。 【文字要素(入れる場合) 「自民党=国家の罠」 または 「文科省、自らハメた二枚舌」 を、中央の壊れた天秤の余白に、引き締まった硬質な明朝体フォントで冷徹に配置。 【全体の雰囲気】 「自民党に媚びを売ろうとした無能な役人の局所最適な仕事」が、結果として国家全体のロジックを爆破してしまったという、極めてシニカルで知的な「権力構造のパズル崩壊」を視覚化した、格式高くも猛毒を含んだグラフィック。

土曜雑感:辺野古の転覆事故と立花孝志の長期勾留について。


【結論】
文科省が同志社大学の辺野古平和学習を「政治的中立性違反」と指導した件は、公共事業に政治的色彩があると自白したに等しい行政の自殺行為である。過去に森友学園の過激な政治汚染を「私立学校だから」と不介入とした二枚舌をミルクボーイの漫才以下と一蹴。曖昧さを残せず局所最適に走る役人の無能さを斎藤前兵庫県知事の自壊と重ね、日本人が持つべき「いずれまた春長に」という政治前(政治的)寛容の美徳の喪失を冷徹に告発する。
【ポイント3選】

テンプテーション・オブ・いじめの告発: 辺野古の事故をダシに反対派を叩こうとする大衆のゲスな欲望を、東北道バス事故や京都の事件への沈黙との対比で浮き彫りにする。
文科省が自ら認めた辺野古の政治性: 単なる公共事業のはずの見学を中立性違反と断じた文科省は、「辺野古は自民党の党利党略である(自民党=国家)」とゲロったも同然と断じる。
デジタルな無能が忘れた春長にの美徳: 放送法の安全弁や斎藤兵庫県知事の失敗を例に、白黒をパキパキにつけて自壊する官僚機構の浅ましさを「いずれまた春長に」という言葉で諭す。
たもっちゃん
たもっちゃん

おっと、ちょっと待ってくださいな。あんた、もしかして前回の第1回の記事、まだ読んでへんのと違います?

いやね、別に怒ってるわけやないんですよ。ただね、いきなりこの文科省と同志社大学の話を読み進めてもらってもね、たぶん『ああ、いつものお上の二枚舌を叩いてるんやな』っていう、表面的な政治批判だけで終わってしまうと思うのよ。それやとね、せっかく時間を割いて読んでくれてるのにつまらんし、なによりもったいないわけ。

前回ね、YouTubeの顔写真サムネがどうとか、タイパを崇めるのが野蛮だっていう話を長々としたんやけど、あれは単なるメディア論の悪口を言いたかったわけやないんです。『公(パブリック)』と『私(プライベート)』をきっちり分けるっていう、大人の世界のイロハの『イ』、つまりは言論の品質管理(クオリティコントロール)について本質的な話をさせてもらったのね。

その『公私の峻別』っていう絶対的な前提、僕らの頭の中にある水準器がピシッと水平に保たれているからこそ、今回の文科省の役人どもがネトウヨにそそのかされて同志社にカマした行政指導がね、どれほどマヌケで、どれほど致命的な論理的自殺行為なんかという、その『猛毒の構造』が100%しゃぶり尽くせるようになるわけですよ。

だからね、ちょっとだけ急ぐ足を止めてもらって、まずは騙されたと思って前回の記事をさらっと読んでみてくださいな。そのほうが、この後のロジックの連立方程式が何倍もオモロく、深く腑に落ちるようになるからね。そっちのゲートを通ってきたら、またここで続きを始めましょうね」

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「公」と「私」を峻別する覚応――辺野古の事故をあえて語らなかった理由

「文科省が同志社大学の平和学習に対して放った『政治的中立性違反』の行政指導。あれは、自民党を国家だと錯覚した役人どもが、自らの首を括るために仕掛けた、おぞましい行政の自殺行為だ」
私がこれまで「語るに値しない私的な事故」としてあえて徹底的に沈黙を守ってきた辺野古の転覆事故が、国家権力の歪んだ介入によって、突如として「公の戦場」へと引きずり出された。その欺瞞を、今ここで徹底的に解剖する。

不特定多数に向けて自らの言葉を流通させる「言論」という営みは、その瞬間に社会的な性格を帯びる。であるならば、その土俵に上げる話題は、右だの左だのという主張の中身以前に、厳格な品質管理(クオリティコントロール)をパスした、社会的な問題性を内包する公的な事象でなければならない。私がこれまで、どれほどネットの野次馬どもにコメント欄で詰め寄られようとも、辺野古沖の転覆事故について頑なに沈黙を守り続けてきた理由は、この「公(パブリック)」と「私(プライベート)」の峻別という言論の絶対的な大前提に拠っている。

痛ましさと社会的問題性は別物――東北道バス事故と京都の児童殺害事件

辺野古沖で発生した活動家の船の転覆事故は、極めて痛ましく、前途ある若い命が失われたという事実には、胸が締め付けられるほどの悲痛さを禁じ得ない。しかし、事故の悲惨さやご遺族の無念さと、その事象が持つ「社会的な問題性」の有無は、完全に別個のレイヤーとして切り離して考えなければならないのが言論の鉄則である。

「この事故そのものにはな、冷徹に言わせてもらうけど、社会的な意味合いや行政・政治の問題性は一ミリも存在せえへん。事故としての本質は、こないだ東北自動車道で起きた部活の遠征バスの転覆事故と全く一緒や。1ヶ月の間に5回も事故を起こすような無茶苦茶な運転手を雇って、乗っていた高校生が親に『このままやったら死ぬかも』って恐怖のメールを送る中で起きたあの凄惨なバス事故や、京都で父親が自分の子供を殺害した事件、あるいは紀州のドン・ファン事件と同じ、いわゆる『社会面』に載るべきプライベートな事件・事故の領域の話なんや。私はそれらの事故も、今回の辺野古の件も、これまで一切語ってこなかった。なぜなら、どれほど涙を誘う悲惨な出来事であっても、それが“公”の言論として議論を戦わせるべき公共のテーマではないからや」

よそ様の家庭の惨劇や、民間組織の管理不足に起因する個別の事故に、外側から言論の皮をかぶせて踏み込むべきではないという慎み。それこそが、最低限の言論のクオリティコントロールのあり姿なのである。

裃を着て正座する言論の前提から、浴衣でだらんとする大衆の本音へ

言論という物品を公共のアリーナに提供する側には、神聖な境界線を踏み越えないための厳しい倫理が求められる。プライベートな事象、個人の死や事故を安易にコンテンツ化し、再生回数や耳目を集めるための道具として消費する行為は、言論の格式を根底から腐らせる肥溜めへの道に他ならない。私はその引き締めを、自らの価値判断において徹底してきた。

「ここまではな、裃(かみしも)を着て正座して語るべき、言論の格式としての建前の話や。こっから先は、浴衣に着替えてへこ帯をだらんとした状態で、お前らのドス黒い『本音』の裏側を引っぺがしてやるから、よう耳かっぽじって聞けよ」

ネトウヨどもの下劣な「テンプテーション・オブ・いじめ(いじめの誘惑)」

私のコメント欄や、SNSのタイムラインで「なぜ辺野古の事故を語らないのか」「反対派の不祥事を糾弾しろ」と狂ったように喚き散らしている有象無象どもがいる。彼らの本音は、正義感でも社会批判でもない。

「お前らな、同じように高校生が命を落としたあの東北道のバス事故の時には、誰一人として『なんであの事件を語らんのや!』って俺に詰め寄ってこなかったやろ。同じ尊い命が失われているのに、なぜ辺野古の事故だけを執拗に選び出して騒ぎ立てるんや? 理由は胸糞悪いほどシンプルや。お前らは言論をやりたいわけでも、社会の理非を論じたいわけでもない。普段から目障りでムかついている『平和』や『人権』を叫ぶ左翼の活動家が、不運にも下手(事故)を打ったから、ラッキー、千載一遇のチャンス到来やからここで集団リンチにしたろうぜっていう、ゲス極まりない『テンプテーション・オブ・いじめ(いじめの誘惑)』に100%屈して群がっているだけや。いじめの快楽に脳汁を出して、ヨダレを垂らしながら騒いでるだけなんや」

【商売とブランドの冷徹な方程式】
商売(ビジネス)としての効率や、目先の小銭を稼ぐことだけを考えるなら、大衆が「いじめたい!」と狂奔している社会面の事件や辺野古の事故のタイトルを動画に掲げて、センセーショナルに語り散らすのが一番手っ取り早い。再生回数は跳ね上がるし、チャリンチャリンと金が転がり込んでくるだろう。しかし、そんな下劣なゲームに加担した瞬間、私を信じて見に来ている顧客の「安心感」は一撃で瓦解し、菅野完というブランドのクオリティは生ゴミの山へと沈む。
逆に、自分が「公と私(プライベート)の峻別」という価値判断に忠実であり、語るべきでない私事には一言も言及しないという姿勢を明示し続けるからこそ、受け手は私の言葉に本当の信頼を置き、ブランドが強固に保たれるのだ。いじめを隠蔽して正義の面をするな。「あの辺野古の連中がムかつくから、他を全て捨てて取り上げるんだ」と、最初から「いじめの看板」を潔く掲げて泥仕合をやる方が、嘘がない分だけお前らの歪んだマーケットにおいてはまだマシな製品(コンテンツ)になるぞ、と私は冷ややかに進言しているのである。

文科省の二枚舌が招いた自殺行為――「自民党=国家」という錯覚の罠

このように、私(すがの)が「語るに値しない私事」として徹底的に無視を決め込んってきた辺野古の転覆事故であったが、ある日を境に、その位相が180度転換することとなった。文部科学省が、この事故を材料にして、修学旅行の一環として現地を訪れていた同志社大学の平和学習プログラムに対し、「政治的中立性違反」としての行政指導を初認定したという報道が飛び込んできた瞬間である。

このまぬけ極まるお上(行政)の介入によって、辺野古の事故は「私」の領域から、国家権力のガバナンスを問うべき「公(パブリック)」の領域へと完全に引きずり上げられた。ここからは、完全に私の主戦場、すなわち言論の出番である。

ミルクボーイの漫才以下――森友学園「安倍首相頑張れ」は不問のダブスタ

文科省が同志社大学に対して行った今回の指導のグロテスクさは、彼らが過去に引き起こしてきたダブルスタンダード(二枚舌)の歴史と対比した瞬間、ミルクボーイの漫才のような底の浅い喜劇へと成り下がる。

「ちょっとこれな、ミルクボーイのネタ風に考えたら本当にお笑いやで。

『うちのオカンがな、文科省の行政指導の基準がわからん言うねん』

『ほな俺が一緒に考えてあげるから、その特徴を言うてみてよ』

『幼稚園児がな、軍服着させられて“安倍総理頑張れ!安保法制国会通過良かったです!中国・韓国が心を改め!”って大声で宣誓しとんねん』

『あ〜、それは明確な政治的中立違反やから文科省が激怒して踏み込むやつやガな!』

『それがな、文科省は“森友学園は私立(市学)やから、政治的中立の原則に照らして判断しませ〜ん”って言うて逃げたらしいねん』

『ほな文科省の指導とちゃうか!……って、ちょっと待て、今回の同志社大学の平和学習に対しては、“政治的中立違反や!”ってパキパキに行政指導しとんねん! 同志社も同じ私立(市学)やんけ!何が違うねん!判断ブレブレやないか!』。

……な? 行政のやってることが、完全に低能な漫才のネタレベルで破綻しとるんや」

私が掴んだ塚本幼稚園の証拠DVD――保護者が籠池夫妻に抱いたリアルな怨嗟

忘れてはならない決定的なファクトがある。かつて日本中を揺るがした森友学園の塚本幼稚園において、園児たちに教育勅語を暗唱させ、特定の政治家や法案を賛美し、近隣諸国への排外主義的なヘイトスピーチを連呼させていた、あの歴史的な「政治的中立性違反」の生き証拠たるDVDを、保護者の自宅から掘り起こし、全国のテレビ局に提供して世に知らしめたのは、他でもないこの私、菅野完である。

「あの時、保護者の人らが俺にその決定的なDVDを貸してくれたのはな、愛国教育に怒ってたからちゃうねん。籠池のおっさんや妻の傍若無人な態度や怒鳴り声に怨嗟が溜まってて、『菅野さん、この夫婦の異常さを分かってください!』って見せられたものやった。中身を見たら、海軍の軍服みたいな制服を着た幼児たちが特定の政権を賛美する凄まじい政治汚染の現場が映っとる。これは偉いことや、ガチの憲法違反・教育基本法違反の証拠やと思って報道に回したんや。当時、幼稚園を管轄していた文科省は、この絶対的な証拠を前にしながら『私立学校法人だから国は踏み込めない』という詭弁を弄して、不介入を決め込んだんやぞ」

その文科省が、同じ私立である同志社大学の平和学習プログラムに対しては、ネトウヨや産経新聞が騒いだというだけの理由で、ソッコーで行使した行政指導。この二枚舌の醜悪さだけで、行政のガバナンスは死に絶えている。

公共事業の見学がなぜ中立性違反になるのか――国が自ら認めた「辺野古の政治性」

しかし、文科省の真の致命傷は、このダブスタの先にある論理的崩壊、すなわち「国自らによる辺野古の政治的色彩の自白」にある。

教育基本法が定める「政治的中立性」の厳密な定義とは、特定の国政政党を応援したり、あるいは特定の政党を排斥したりする行為を学校現場で禁じる、という極めて限定的なリーガルルールである。

「おい、文科省の役人ども、よう考えろよ。辺野古の埋め立て工事というのは、自民党という私的な政党の党派政務ではなく、国土交通省や防衛省という国家の公的機関が法律に基づいて執行している、建前上は『単なる公共事業』のはずやろ。その公共事業の現場を、学生が賛成の立場であれ反対の立場であれ見学しに行っただけの行為を、なぜ『政治的中立性違反』として指導できるんや? 公共事業を見ることが政治的偏向になるという論理が成立するためには、一つの前提が必要になる」

「それはな、『辺野古の埋め立ては純粋な国家の公共事業ではなく、自民党という特定政党の利害と手垢にまみれた、極めて政治的な色彩を帯びた党利党略の工事である』、ひいては『自民党=国家である』という事実を、文科省みずからが公式の行政判断としてゲロって、首を括りにいったということや。『語るに落ちる』とはまさにこのことで、自民党に媚びを売ろうとした局所最適な役人の仕事の出来なさが、国家の公共事業の正当性そのものを内部から爆破する、致命的な自殺行為を完成させてしもたんや」

局所最適が生む全体崩壊――「いずれまたはるながに」を忘れたディジットな無能

この文科省の暴走指導は、もし同志社大学側が徹底抗戦の構えを見せて司法の場に持ち込めば、100%国側が血を流して確実に敗北する、明白な憲法違反の代物である。曖昧に処理すべき政治のグラデーションを、ネトウヨの圧力に屈して「白か黒か(ディジット)」のデジタルな判断でパキパキに区切ろうとした瞬間に、権力のロジックはあちこちで矛盾を起こして自壊し始めるのだ。

自民党大会での自衛隊歌唱はオッケーという「二枚舌」の限界

権力構造の歪みは、別の国家機関の振る舞いを並べた瞬間に、言い逃れのできない悪臭を放ち始める。

「自民党という、どこまでいっても私的な一党派に過ぎない組織の『党大会』という超プライベートな集会に、公の権力機関であり、最も厳格な政治的中立を求められるはずの自衛官を、ご丁寧に制服まで着せて出席させて、党員の前で歌を歌わせとる政権やぞ。私的な党のイベントに公のサービスを私物化して投入する行為は不問に処し、公の公共事業を私立大学の学生が見学した学習は『中立性違反だ』と指導する。こんなちゃんちゃらおかしい話が、近代民主国家のガバナンスとして通用するわけがないやろ」


余談だが、学校現場の教育基本法と同じように、テレビやラジオの電波を縛る「放送法」にも『政治的中立』の義務が定められている。しかし、この法律の運用において、国は『番組一つひとつの内容が100%中立であること』までは求めていない。なぜなら、一言喋るたびに「中立か、偏向か」とパキパキに監視して黒白をつけにいったら、それ自体が言論統制になるからだ。だからこそ、「一ヶ月、あるいは一年というスパンの中で、局全体の放送の『森』を見たときに、こっちの意見もあっちの意見も網羅して、トータルで真ん中になっていれば義務履行とみなす」という、極めて知的な安全弁(バッファ)を設けているのだ。
もし、この安全弁を無視して、ネトウヨがほざくように「一番組ごとにディジットに白黒つけろ!」というパキパキの基準を適用してみろ。東京のキー局はともかくとして、大阪のテレビ局、なかんずく特定の政党や知人を24時間体制で朝から晩まで大絶賛し続けている読売テレビをはじめとする大阪の放送局は、一発で全部電波を止められて停波せなあかんようになるぞ。政治的曖昧性というほわーっとしたグラデーションを残しておくことこそが、言論空間と権力構造を維持するための大人の知恵、安全弁の格式なのである。

国会で文科大臣と防衛大臣をハメるためのロジカルな連立方程式

日本経済新聞のウェブサイト記事で、辺野古沖転覆に関する文科省の同志社への指導と政治的中立性について報じている。

もし私が国会議員として、この欺瞞まみれの閣僚どもを糾問する打席に立つならば、戦術としてのロジカルな連立方程式は、ものの数分で完成する。

「まず、防衛大臣と国土交通大臣を証言台に呼び出して、極めて穏やかに、罠とも思わせんような態度で質問するんや。『すいません、防衛省や国交省が管轄している辺野古の埋め立て工事というのは、何か特定の政党を応援したり廃斥したりするための、政治的色彩を帯びた工事なんですか?』とな。大臣どもは、国会答弁の建前上、100%『いえ、これは法律に基づいた純粋な国家の公共事業であり、政治的色彩など一切ございません』と胸を張って答えるしかないわな。
その完璧な言質を取った直後に、文科大臣を引っ張り出して、冷徹にトドメを刺すんや。『防衛省も国交省も、政治的色彩のまったくない純粋な公共事業だと言明されました。では文科大臣、なぜその単なる公共事業の現場を見学しただけの同志社大学の学習が、教育基本法の“政治的中立違反”になるんですか? 9年前、園児に“安倍首相頑張れ!”とヘイトを連呼させていた本物の教育汚染事例たる森友学園には“私立だから介入できない”と言い放った貴省の見解の一貫性を、法的な典拠に基づいて一分の隙もなくロジカルに説明してください』と。……これや。この二つの矛盾する国家の見解を国会の広場に並べるだけで、言い逃れの合理的な説明などできずに、官僚機構の論理は一瞬でフリーズして粉々に砕け散るんや」

行政が忘れた日本人の美徳

今回の文科省の無残な大失敗の本質は、あの業務時間中に職務と関係のない中傷文書を起案した県民局長をディジットに懲戒免職処分に処しておきながら、自分自身は業務時間中に職員に私的なSNS用の写真を撮らせて公私混同していた、斎藤元彦前兵庫県知事と側近どもの局所最適の失敗と、完全に同じ構図である。

自分の利害や、ネトウヨの顔色を伺いたいという局所的な局面において、融通の利かないデジタルな刃を振り回す仕事のできない無能は、最終的にその刃によって自らの首を切り落とすことになる。日本社会には、かつて白黒をはっきりつけずに余白を残し、破局を回避するための美しい言葉が存在していた。

『いずれまたはるながに)』――。物事の白黒をパキパキにつけて相手を追い詰めるのではなく、季節が巡ってまた春が来て、暖かくなったらその時にまた緩やかに解決しましょうや、という、政治の本質たる『曖昧性の美徳』を示す最高にエレガントな言葉や。この知恵を失い、ネットのいじめの欲望に迎合して、デジタルに他者を排除しようとした文科省の役人どもは、自らが『自民党=国家である』という、近代デモクラシーにおいてあってはならない最大の欺瞞を自白する罠に、自らハマって破滅したのである」

たもっちゃん
たもっちゃん

「まあ、文科省の役人どもが『自民党=国家』やなんて錯覚して自爆していく姿、なかなかに味わい深いというか、ちょっと呆れて言葉もないでしょう? 融通の利かないデジタルな刃を振り回す仕事のできない奴っていうのはね、最終的に自分で自分の首を括る罠にハマるわけですよ。

さて、そんなお上のマぬけな『黒白(白黒)の付け方』を笑った後にね、もう一つ、今ネットの有象無象がパキパキに白黒つけようとして泥仕合を演じている、最高に不毛なテーマがあるのよ。

……そう、あの立花孝志の長期勾留を巡る大騒ぎね。

画面を開けばさ、彼の信者どもが『普段人権を叫んでいる左翼が立花を助けないのはダブスタだ!』って言葉を覚え立ての猿みたいに喚き散らしとるわけ。でもね、ちょっと冷静に考えてみてくださいな。籠池さんが12ヶ月閉じ込められた時や、角川さんが2年近く勾留された時、お前らは一体どこの肥溜めで眠ってたんや、と。他人の人権が国家に圧殺されている時は拍手喝采しておいて、身内が捕まったら『助けてくれない!』って、そんな幼児的なサークル活動、大人の言論空間で通用するわけがないやろ、というお話なんですよ。

ただね、この話の本当に恐ろしい本質は、そんなネットのダブスタ合戦のレイヤーにはないんです。

立花という個人が今直面している、破産法第253条の『非免責債権』という民事上の本当の地獄。それと対比した時に浮かび上がる、『人権の観点なら外に出すべきだが、人道的な情けで言えば、拘置所の鍵の中に閉じ込めておくことこそが、娑婆の債権者から彼を守る最大の保護(シェルター)になってしまっている』という、身も蓋もないリーガルガジェットの残酷な逆説。

さらにはね、そうやって品質管理のすっぽ抜けたデマ空間をオモチャにして大衆が遊んでいる裏側で、あの安倍晋三が銃撃された直後の『空白の12時間』に、何の関係もない無辜の在日同胞たちがどれほど血の凍るような命の恐怖を味わっていたか。

言葉の責任を放棄した空間が、社会にどんな本物の犠牲者を作るのか。

ちょっとお茶でも新しく淹れ直して、次の記事もゆっくり読んでみてよ。法律の冷酷な仕組みと、大衆のドス黒いいじめの欲望の正体を、僕が親切に、分かりやすく解剖してますから」

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