維新の会・吉村代表の失態 「犬の糞」への転落:菅野完が斬る、維新の会がプライドを捨て権力に媚びた瞬間 | 菅野完 朝刊チェック 文字起こし
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維新の会・吉村代表の失態 「犬の糞」への転落:菅野完が斬る、維新の会がプライドを捨て権力に媚びた瞬間

2025/12/12(金)朝刊チェック:どうやらまた高市早苗さんが日本を救ってくれたようです。

序文:事件の核心

本稿は、菅野完氏の鋭利な分析に基づき、日本維新の会・吉村洋文代表のある発言が、なぜ単なる方針転換ではなく、政党としての「魂の死」を意味するのかを解き明かすものである。菅野氏が喝破したように、この一言は維新の会が自ら掲げた存在価値を根底から破壊し、その政治的地位を決定的に失墜させた歴史的な失態であった。本稿では、その変節の過程、動機、そして帰結を、菅野氏の視点を通して徹底的に分析する。

すべての起点となったのは、吉村代表がラジオ番組で発した「(議員定数削減法案の)今国会中の採決がなくても、連立政権合意が破られたことにならない」という一言である。この発言が、維新の会のすべてを白日の下に晒すこととなった。

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1. 豹変:昨日までの「イキり」は、なぜ一夜にして「ヒヨり」に変わったのか

維新の会が見せた劇的な態度の変化は、戦術的な矛盾として片付けられるものではない。菅野氏の分析が浮き彫りにするのは、それが支持者に対する明白な「嘘」であり、自らが掲げた改革の旗を自ら踏みにじる「裏切り」に他ならないという事実だ。この醜悪な「豹変」こそ、彼らが政治的信頼性を完全に失墜させた決定的な瞬間であった。

前日まで見せていた強気な姿勢と、一夜にして露呈した弱腰な態度の落差は、あまりにも鮮烈である。

  • 前日までの強気な姿勢: 菅野氏が「イキっていた」と表現するように、維新の会は直前まで自民党に対し極めて強硬な態度をとっていた。「身を切る改革」の象徴である議員定数削減法案を連立の絶対条件として突きつけ、「採決しなかったら連立離脱だ」「合意破棄だ」と公言。自民党に圧力をかける「戦う改革政党」の姿を演じきっていた。
  • 突然の弱腰な態度: しかし、吉村代表はラジオ番組でその大前提をいともあっさりと覆した。「採決に至らなくても連立合意は破棄されない」という発言は、事実上の白旗宣言に他ならない。このあまりの変わり身の早さに対し、菅野氏は「何ヒヨってるの?」「お前ら昨日まで採決せえへんかったら連立離脱だ言うてイキっとったやんけ」と、その無様さを痛烈に批判した。

この態度の豹変が白日の下に晒したのは、維新の会が支持者に見せてきた「強気な改革者」というアイデンティティが、権力構造の前では何の価値も持たない、口先だけのパフォーマンスであったという残酷な真実である。これは単なる戦術ミスではない。菅野氏の論理によれば、それは政党としての根幹をなすアイデンティティそのものを放棄する行為であった。では、なぜ彼らはかくも無様な変節を選んだのか。その動機は、より根深い病根に巣食っている。

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2. 動機:「権力への執着」が見せた醜態

維新の会の醜態は、戦術的な失敗ではなく、権力への浅ましい執着という病根が表出した必然的な結果であった。菅野氏の分析はその病根を容赦なく暴き出す。彼によれば、その根底にある動機は「なにがなんでも政権にしがみつきたい」という、剥き出しの執着心に他ならない。この権力欲が彼らのプライドを完全に麻痺させ、政治家としてあるまじき醜態を演じさせたのである。

菅野氏は、この維新の会の姿勢に対し、生理的なレベルの嫌悪感を込めた3つの言葉を突きつける。

  • 「ダサい」: これは美学的な失敗への軽蔑である。昨日まであれほど虚勢を張っていた(イキっていた)者が、いざとなると無様に怖気づく(ヒヨる)。その滑稽でみっともないギャップ、矜持のかけらもない振る舞いに対する痛烈な侮蔑だ。
  • 「サブイボが出る(寒気がする)」: これは政治的主体性の完全な喪失に対する生理的嫌悪感である。自らの主張を捨て、強者(自民党)に媚びへつらう姿は、もはや単なる弱さではない。自らの意志を明け渡し、隷属を求めるその光景が引き起こす、生物的な拒絶反応を意味する。
  • 「キモい」: これは行動の根底にある動機そのものへの強烈な嫌悪である。政党としての理念や支持者との約束よりも、連立与党という地位に固執する。そのプライドを捨て去った剥き出しの権力欲、その執着心自体が「キモい」と断罪されるのだ。

「採決しなくてもいい」という発言は、維新の会が自民党との対等なパートナーシップを完全に放棄した瞬間であった。菅野氏が喝破するように、それはもはや交渉ではなく、「どこまでもついて行きます」という完全な従属の意思表示に他ならない。

プライドを捨て、ただ権力に執着するその姿勢は、皮肉にも維新の会を政治的にさらに低い地位へと転落させた。では、彼らが自ら選択したその新たな「地位」とは、一体どのようなものなのだろうか。

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3. 新たな政治的地位:「下駄の雪」から「犬の糞」への転落

菅野氏は、維新の会の政治的価値がいかに失墜したかを定義するため、従来の政治用語を否定し、より強烈で侮蔑的な比喩を突きつけた。それは、連立パートナーを指す「下駄の雪」という言葉と、菅野氏が維新のために新たに定義した「犬の糞」との比較によって鮮明に示される。この比喩の転換が意味するのは、維新の会がもはや単なる「疎ましい存在」ではなく、「価値のない汚物」へと成り下がったという冷徹な事実である。

比喩対象と意味合い
下駄の雪日本の政界で、自民党にとっての公明党のように、連立を維持するためには必要だが時に疎ましいジュニアパートナーを指す伝統的な表現。「踏まれてもついてくる」存在だが、そこには「雪ならばまだ風情がある」「いつかは溶けてなくなる」という、ある種の儚さや一過性のニュアンスが含まれる。
犬の糞菅野氏が今回の維新の会を定義するために用いた、全く新しい侮蔑的な比喩。これは「雑草履(自民党政権)にべっとりとへばりついて離れない汚物(うんこ)」を意味する。雪のように綺麗に消えることはなく、一度踏んでしまえば靴底にこびりついて悪臭を放ち、「壁にこすりつけて無理やり拭い取らなければならない」、厄介で全く価値のない存在であるという痛烈な意味が込められている。

菅野氏が「公明党以下になった」と断じた理由はここにある。公明党は時に自民党に対してブレーキ役を自任し、独自の要求を通そうと動く。しかし、今回の維新は自民党に対して何の要求も通せないどころか、約束を反故にされてもなお政権に居座り続けるという、完全な隷属状態を受け入れた。

維新の会は、自らの行動によって、自らを「価値のない汚物」として再定義してしまったのである。この絶望的な状況を、菅野氏はさらに分かりやすい人間関係のアナロジーを用いて補強する。

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4. 結論:プライドを失った「大阪のアホな政党」の末路

吉村代表の発言は、単なる失言や方針転換ではない。菅野氏の分析が明らかにしたのは、それが日本維新の会という政党の存在意義の放棄であり、「自民党政権の延命に利用されるだけの、見苦しい付属品」になることを自ら宣言した歴史的な瞬間であったという事実だ。権力への執着が恥知らずな豹変を強い、その結果、自らを「犬の糞」という政治的地位に貶めた。この一連の醜態は、一つの政党が理念を失った時に待ち受ける末路を我々に突きつけている。

この状況を、菅野氏は「DV気質の男と恋人の関係」という痛烈なアナロジーで喝破する。

  • DV気質の男: 日本維新の会
  • 恋人: 自民党
  • 状況: 「俺の言うことを聞かなければ別れる!」と恋人(自民党)に威張り散らしていた男(維新)が、いざ本当に捨てられそうになった途端、プライドをかなぐり捨てて泣きじゃくり、**「何もしなくていいから一緒にいさせてください、靴も舐めます」**と見苦しくすがりつく。この構図は、維新の会の「プライドのなさと変わり身の早さ」をあまりにも的確に表現している。

菅野氏がこの醜態を「大阪のアホな政党の末路」と嘲笑し、「大阪の恥」とまで言い切る。大阪で威勢を張っていた者たちが、永田町(国政)の権力構造の前でいかに無様で卑屈な存在になり果てたかという、侮蔑と失望が込められているのだ。彼らはもはや単なる政党ではなく、「アホしかおらん街(大阪)が選んだアホの政党」なのである。

最終的に、菅野氏の分析を通じて浮かび上がるのは、改革を掲げた一つの政党が、権力への執着のあまりアイデンティティとプライドを完全に失い、自ら進んで権力構造の靴底にこびりつく「犬の糞」へと成り下がっていく姿である。それは、政治が理念を失った時に待ち受ける、あまりにも無様で悲しい結末に他ならない。

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