記事の要約と図解
【結論】 高市早苗氏を「安倍晋三の再来」としてもてはやす熱狂は、マルクスが看破した通りの「壮大な茶番」に過ぎない。インフレと地政学リスクが顕在化する現代において、かつて安倍政権を支えた「富裕層」はすでに離反しており、現在の支持層は「弱い者いじめに拍手して自己保身を図る弱者」のみで構成されている。そこにあるのは強大な権力への恐怖ではなく、ただ能力の欠如がもたらす痛々しさである。
【ポイント3選】
- マルクスの警句と「再来」の幻想: 歴史は一度目は悲劇、二度目は茶番として繰り返す。高市氏と安倍氏の落差は、ルイ・ボナパルトとナポレオン以上のものだ。
- インフレが暴く富裕層の冷淡さ: デフレ下で不労所得を享受できた安倍時代とは異なり、インフレとリスク増大の現在、富裕層は高市氏を支持すれば「貧乏になる」と見抜いている。
- 支持層の正体は「弱者」のみ: かつての「金持ち+弱者」の両輪は崩れ去り、現在の熱狂の正体は、強者にすり寄ることでいじめの対象から逃れようとする弱者の群れに過ぎない。
歴史は繰り返す――安倍政権の「悲劇」と高市支持層の「茶番」を分かつもの
導入:マルクスの警句と「再来」の幻想
カール・マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の冒頭に記した、あまりにも有名な言葉がある。「ヘーゲルはどこかで、歴史は二度繰り返すと述べた。だが、彼はこう付け加えるのを忘れた。一度目は悲劇として、二度目は壮大な茶番として」と。
この警句ほど、現在の日本政治――とりわけ一部の保守層における熱狂を正確に射抜いている言葉はないだろう。今、高市早苗氏を「安倍晋三の再来」としてもてはやす声が一部で上がっている。高市氏陣営もまた、自らが安倍氏の正統な後継者であることを強調してやまない。
しかし、両者の間には、ナポレオン・ボナパルトとその甥ルイ・ボナパルトの間に横たわる落差以上の、絶望的なほどの距離がある。それは単なる個人の資質の違いにとどまらず、両者を取り巻くマクロ経済環境と、それに呼応する「支持層の正体」が決定的に異なっているのだ。この構造的な相違を直視しない限り、現代政治のグロテスクな実像を見誤ることになる。
本論1:10年前の「熱狂」――デフレと富裕層
10年前、第二次安倍政権が誕生した際の熱狂を思い起こしてほしい。当時、最も狂喜乱舞していたのは誰か。それは、純金融資産が優に1億円を超えるような、真の富裕層たちであった。
当時のマクロ経済の基調は「円安かつデフレ継続」である。これが資産家にとって何を意味したか。相場に資金を投じてリスクを取らなくとも、現金を保有しているだけで、デフレ環境下では実質的な価値が向上する。まさに、持っているだけで資産が膨らむ富裕層にとっての「ボーナスタイム」だったのだ。
この経済政策に対し、連立与党である公明党を含め、異を唱える強力な政治勢力は存在しなかった。その結果、持たざる者が苦境を強いられる一方で、富裕層がさらなる富を蓄えるという歪な構造が定着した。労働に頼らずとも、ただ資金を寝かせておくだけで資産価値が自然と増大していく時代の象徴として、世間に「FIRE(経済的自立と早期リタイア)」という言葉が浸透し始めたのもこの頃である。安倍政権の強さの根源には、富裕層にとっての明白な「経済的合理性」が存在していたのだ。
本論2:現代の「冷や水」――インフレと地政学リスク
では、翻って現在はどうか。日本経済は明確にインフレへと舵を切っている。インフレ下では、資産家は手元の現金を金利を生む金融商品へ振り向けなければ、資産価値は目減りしていく。富裕層からすれば、資産防衛のために多大な「手間」と「時間」を割かなければならない、極めて煩わしく、かつシビアな時代なのだ。安倍時代のような「現金を寝かせておくだけで儲かる」という余裕は、もはやどこにもない。
さらに決定的なのが、地政学リスクの増大である。中東情勢の緊迫化やウクライナ戦争による原油価格の高騰(1バレル100ドルに迫る勢い)、それに伴う株価の下押し圧力。これらは投資家にとって、他者が引き起こした紛争による不可避な「もらい事故」であり、回避すべき明確なマイナス要因である。
このようなシビアな環境下において、経済的な実利を伴わず、ただ勇ましいだけのタカ派的言説を弄する政治家を、富裕層が支持するはずがない。かつて安倍時代に日の丸を振って喜んでいた資産家たちは、今や高市氏の言動を冷笑している。「高市氏に同調すれば、確実に資産を失う」と、彼らはその鋭い金銭的嗅覚で気づいているのだ。彼らにとって、これは純粋に「金の話」なのである。

本論3:支持層の変容――「弱い者いじめ」の構造
富裕層が潮を引くように去った後、現在の高市氏の周囲には誰が残っているのか。驚くべきことに、その支持構造はルイ・ボナパルトの支持層と酷似している。すなわち、「弱者、貧困層、虐げられた人々」である。
ここに、10年前と現在の決定的な対比がある。 安倍時代の支持基盤は、前述した「資産運用で肥え太る富裕層」という強固な車輪と、もう一つの歪な車輪で構成されていた。それは、「権力者による『弱い者いじめ』に拍手喝采を送ることで、自分がいじめの対象から外れようとする」屈折した弱者たちである。この両輪が噛み合っていたからこそ、安倍政権は盤石な人気を維持できたのだ。
しかし、現在の高市氏はどうか。富裕層という「経済的合理性」に裏打ちされた強力な車輪はすでに脱落している。残されているのは、「強者への同調によって自己保身を図る弱者」という、あまりにも脆く頼りない片輪のみなのだ。
結論:悲劇にもなれない「茶番」の正体
このような脆弱でいびつな支持層に支えられた熱狂を目の当たりにしたとき、我々が抱くのはどのような感情か。安倍政権期に感じた「このままでは国の根幹が変えられてしまう」という切迫した危機感は、そこにはない。
あるのはただ、見ていて居た堪れなくなるような「痛々しさ」への嫌悪感。そして「このままでは確実に自滅するだろう」という、能力の欠如に起因する哀れみ、言うなれば、極めて冷笑的な「惻隠の情」である。
マクロ経済の構造的変化を直視せず、勇ましい言辞だけで空虚な熱狂を煽り立てようとする試み。そして、その虚勢に縋ることでしか自我を保てない支持層の存在。これこそが、マルクスが予見した「二度目は壮大な茶番として」の完璧な実例である。彼らが演じているのは、悲劇にすら昇華し得ない、あまりにもお粗末な喜劇に過ぎない。我々は、この滑稽な構造を冷徹に分析し、次なる政治のステージへと議論を進めなければならないのだ。





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