「鬼平犯科帳」再考:通説を覆す菅野完流・歴代作品の深読み | 菅野完 朝刊チェック 文字起こし
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「鬼平犯科帳」再考:通説を覆す菅野完流・歴代作品の深読み

1/5(月)朝刊チェック:潜在的売国奴

私が菅野完でございます。1月5日 朝刊チェックの時間がやってまいりました。頑張っていかなあかんなぁ~言うてるところなんですけど

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序論:なぜ今、「鬼平犯科帳」を語り直すのか

多くの視聴者にとって、『鬼平犯科帳』といえば、俳優・中村吉右衛門が長きにわたり演じた平成版の姿を想起するだろう。その重厚な演技とシリーズ全体の完成度の高さから、吉右衛門版はいつしか『鬼平犯科帳』の「決定版」として、一種の文化的定説となっている。しかし、この単一的な見方は、シリーズが持つ本来の多層的な魅力を見過ごさせる危険性をはらんでいる。本稿は、菅野完氏の鋭利な視点を通じてこの通説を解体し、シリーズの原点である初代・松本白鸚版から、丹波哲郎版、萬屋錦之介版に至るまでの歴代作品を比較検討することで、この偉大なシリーズが持つ真の芸術的価値と文化的深度を再発見することを目的とする。

シリーズの真の醍醐味は、同じ物語が異なる俳優、異なる演出、そして異なる時代背景によっていかに変容し、新たな輝きを放つかを味わうことにある。

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1. 「決定版」という幻想:比較鑑賞で味わう『鬼平犯科帳』の真髄

『鬼平犯科帳』という文化遺産を真に理解するためには、特定の作品を絶対視する安易な視点を捨て、歴代シリーズを横断的に比較するという批評的アプローチが不可欠である。この比較鑑賞こそが、単なる物語の受容を超え、作品の細部に宿る芸術性を読み解くための羅針盤となり、本稿の中心的な方法論でもある。

その好例が、シリーズを通じて複数回映像化されているエピソード「むかしの女」である。初代・松本白鸚版では名優・沢村貞子が、そして後年の中村吉右衛門版では大女優・山田五十鈴が、主人公・長谷川平蔵のかつての女を演じた。物語の筋は同じでありながら、二人の俳優が持つ個性と演技アプローチの違いによって、作品の趣は全く異なる。菅野氏の評価によれば、「作品としての完成度は白鸚版が優れている」としながらも、「山田五十鈴の演技の凄みもまた特筆すべきである」とされる。これは優劣をつけるための比較ではなく、それぞれの俳優が到達した演技の高みを認識するための二元的な評価なのだ。

このような比較を通じて、視聴者は単なる物語の消費者から、作品間の差異を能動的に読み解く批評家へと変貌する。俳優の身体性、演出家の意図、そして時代の空気が、いかにして一つの物語に異なる命を吹き込むのか。この比較の視点こそが、各時代の名優たちが到達した演技の高みを理解する上で不可欠なのである。

2. 伝説の誕生:初代・松本白鸚版と「メディアミックス」の先進性

今日、我々が知る『鬼平犯科帳』の伝説は、1969年に放送が開始された初代・松本白鸚(八代目松本幸四郎)版から始まった。しかし、この初代シリーズを単なる人気小説の映像化と見なすのは大きな誤りだ。それは、極めて先進的な構造を持つメディア作品であり、後のシリーズ全ての評価軸となる崇高な基準を打ち立てた金字塔であった。

特筆すべきは、原作者・池波正太郎による小説連載とテレビドラマの放送が、ほぼ同時進行であったという事実である。これは現代で言う「メディアミックス」の先駆的事例に他ならない。菅野氏が指摘するように、池波氏はテレビの反響をリアルタイムで感じ取りながら、登場人物の造形を深め、物語を練り上げていった。つまり、原作(文字)と映像は一方通行の関係ではなく、互いに影響を与え合いながら『鬼平犯科帳』という豊かな世界を共創していたのであり、現代のトランスメディア・フランチャイズに先駆ける、ダイナミックでインタラクティブな物語創造の先進的モデルであった。

この創造的危機とも言える状況を奇跡的に支えたのが、脚本家・井手雅人の存在である。原作のストックがまだ少なかった初期段階において、彼がいかにして物語を構築し、池波作品の本質を映像言語へと翻訳したか。その功績は計り知れない。菅野氏は「井手雅人の存在なくして、池波作品の映像化はあり得なかった」と断言しており、その貢献の大きさは、後の『仕掛人・藤枝梅安』や、ひいては『必殺』シリーズすら生まれなかったかもしれないと論じることも可能だろう。

そして、井手のようなレギュラー脚本家が物語の骨格を支える一方で、このシリーズは時に映画界の巨匠を招聘することで、テレビドラマの限界を突破しようと試みた。その頂点が、菅野氏が「日本のテレビドラマ史上最高傑作」とまで称賛する「女掏摸お富」である。

  • 脚本: 新藤兼人
  • 監督: 吉村公三郎
  • 評価: 50年以上前のモノクロ作品でありながら、日本映画界を代表する巨匠コンビが、テレビというメディアで「表現の極北」を追求した、後世のいかなる作品も超えられないであろう不滅の金字塔。

初代白鸚版が示したこの圧倒的な芸術性の高さは、後のシリーズが参照すべき偉大な基準となった。だが次に登場する丹波哲郎版は、この芸術性とはまた異なるアプローチで、鬼平像に新たな命を吹き込むことになる。

3. 鬼平の「身体性」:丹波哲郎版に見る恐怖と芸術

数多いる長谷川平蔵役者の中で、菅野氏が「最も長谷川平蔵らしい」と評するのが、歌舞伎界とは縁のない映画俳優、丹波哲郎である。その評価の根幹にあるのが、理屈や様式美を超えた「身体性」という概念だ。丹波の演技は、役柄を記号的に演じるのではなく、自身の身体というメディアを通じてキャラクターを「現前」させるという、演技論の核心に触れるものであった。

丹波版『鬼平犯科帳』の核心的魅力は、「怖さ」と「食事シーンの芸術性」という二つの要素に集約される。彼の演じる平蔵は、ただ威厳があるだけでなく、盗賊たちが心の底から戦慄するような本物の恐怖をまとっていた。そしてもう一つ、彼の演技が芸術の域に達していたのが、食事のシーンである。

その頂点として菅野氏が「横綱」と評するのが、エピソード「だましあい」だ。平蔵が信頼する料理人が盗賊に籠絡され、食事に毒を盛るよう脅されるこの物語では、平蔵がいかに普段からその料理を愛しているかを視聴者に伝えることが説得力の鍵となる。丹波哲郎は、セリフに頼らず、これを身体一つで表現した。膳に運ばれた鮎の塩焼きを見て浮かべる至福の表情、そして一口食した瞬間の「たまらん」という顔。この一連の演技だけで、料理人への信頼と日々の食事への喜びが完璧に表現され、後に毒を盛られたと気づく瞬間の悲劇性を見事に際立たせている。その説得力は、脚本の記述すら凌駕するものであった。

この丹波の芸術的な「食べる姿」は、極めて重要な示唆を与える。菅野氏は、「池波正太郎が食に関するエッセイを精力的に書き始めたのは、丹波哲郎の演技に触発されたからではないか」という大胆な仮説を提示している。これは、俳優の身体表現という映像メディアが、原作者の創作活動、すなわち文字メディアに還流し影響を与えた可能性を示しており、メディア論的にも非常に興味深い指摘だ。

丹波哲郎の演技は、キャラクターの内面をセリフではなく、その存在そのもの、すなわち「身体」で語るという高みに到達していた。しかし、より広く知られる錦之介版や吉右衛門版は、また異なる力学で成り立っていたのである。

4. 通説への批判的検証:錦之介版と吉右衛門版の再評価

一般的に高い評価を受け、多くのファンに愛されている萬屋錦之介版と中村吉右衛門版。しかし菅野氏の批評眼は、これらのシリーズが内包する構造的な特徴や、俳優の身体性がもたらすアンバランスさを鋭く見抜く。このセクションでは、通説に安住することなく、二つの人気シリーズを批判的に再評価する。

4.1 萬屋錦之介版:「スターシステム」がもたらした功罪

萬屋錦之介が鬼平を演じたシリーズは、良くも悪くも当時の「スターシステム」の影響を色濃く受けていた。菅野氏の分析によれば、多くのエピソードで「主役である錦之介が誰よりも目立たなければならない」という演出が先行しすぎており、作品全体の調和を欠く場面が見受けられる。

しかし、そのスター中心の演出が、逆説的に功を奏した傑作も存在する。その代表例が、菅野氏が「小結」に挙げるエピソード「はさみ撃ち」である。この回では、錦之介の華やかで押し出しの強い演技が、敵役を演じた名優・内田朝雄の抑制的で静かな芝居と見事な対比を生み出した。このコントラストによって、池波正太郎の原作が内包していた人間の業や欲望が絡み合う「淫靡さ」が、シリーズ中で最も効果的に表現されたと評価されている。スターシステムという制約が、時に予期せぬ化学反応を生み出す好例と言えるだろう。

4.2 中村吉右衛門版:「様式美」と「生々しさ」のアンバランス

「決定版」との呼び声が高い中村吉右衛門版。その評価は、丹波哲郎とは対照的な意味で、俳優の「身体性」がいかに作品の質を左右するかの絶好の事例である。菅野氏は、俳優自身の身体的特性と役柄との間に生じる興味深いアンバランスさを、「酒」と「食」という日常的なシーンの対比において、極めて明確に示している。

  • 酒のシーン: 吉右衛門自身が下戸(酒をほとんど飲まない)であるからこそ、彼の酒を飲む所作は、個人的な欲求から切り離された「様式美」として完成されている。そこには無駄がなく、洗練された動きは「実にかっこよく」映る。
  • 食のシーン: 一方で、彼自身が大の食いしん坊であったことが、食事のシーンでは裏目に出る。料理を前にした時の目は、もはや演技のそれではなく、食欲に駆られた「マジの目」「物欲しそうな顔」になってしまっている、と菅野氏は厳しく指摘する。役柄としての長谷川平蔵ではなく、中村吉右衛門個人の生々しさが露呈してしまい、演技として成立していない瞬間が生まれてしまうのだ。

これらの分析は、単なる好き嫌いの表明ではない。それは、俳優の持つ身体的・個人的な特性が、役柄の表現にいかに深く影響を与えるかという、極めて高度な演技論に基づいた洞察なのである。そして、これらの個別の作品評価は、氏が提示する明確な番付によって、より体系的に理解することができる。

5. 結論:菅野完による「鬼平犯科帳」歴代番付と、文化を「解像度高く」見ることの重要性

本稿で展開してきた議論は、菅野完氏が提示する『鬼平犯科帳』という文化に対する、より深く、多角的な視点への誘いである。それは、単一の「決定版」に満足するのではなく、作品群全体を一つの大きな文化史として捉え直す試みだ。

この議論の核心にあるのは、文化を「解像度高く」見るという姿勢そのものである。菅野氏はこの概念を、お好み焼きのメタファーを用いて鮮やかに説明する。東京にいる人は、西日本のお好み焼きを「大阪風」と「広島風」の二種類しかないと大雑把に捉えがちだが、それは解像度の低い見方に過ぎない。現実は、京都、大阪、神戸、姫路といった都市ごと、いや、時には中学校の校区単位で、使うソース、キャベツの切り方、具材の混ぜ方まで全てが異なる、豊かで複雑な文化圏が広がっている。このお好み焼きのメタファーこそ、菅野氏が言う文化を「解像度高く」見ることの本質だ。

「鬼平=吉右衛門」という固定化されたイメージに安住することは、この解像度が低い状態に他ならない。そうではなく、初代・松本白鸚版が打ち立てた揺るぎない芸術性、井手雅人や新藤兼人といった脚本家ごとの作風の違い、そして丹波哲郎の「身体性」から吉右衛門の「様式美」に至るまで、俳優一人ひとりが示した表現の差異を深く味わうこと。それこそが、昭和のテレビドラマが育んだ文化的な豊かさを、現代に正しく継承する道なのだ。

その批評的視点の集大成が、以下の歴代エピソード番付に集約されている。

  • 別格: 白鸚版「女掏摸お富」
    • この作品は「鬼平犯科帳」や「時代劇」というジャンルを超えて、「日本のテレビドラマ史上最高傑作」だと思う。 新藤兼人脚本/吉村公三郎監督のゴールデンコンビが45分で「テレビの表現」の極北を追求し尽くす。 50年以上前の作品だがこれを超えるものはない。
  • 越えられない壁
  • 横綱: 丹波版「だましあい」
    • 池波正太郎が丹波哲郎鬼平をどう評価していたのか寡聞にして知らんのだが、僕はこの作品で「ああ。丹波哲郎こそ鬼平だ」と惚れ込んでしまった。なにせ怖いのよw 脚本は池波正太郎同門の盟友・井手雅人。 井手の筆が丹波哲郎を活かし切った良作
  • 大関: 白鸚版「縄張り」
    • 事実だけ列挙しよう。 「裏社会の元締め達が縄張り争いで騙しあう」という池波正太郎の原作を若き日の早坂暁が見事に脚本化し、宮口精二、加賀邦男、富田仲次郎、松本染升、幸田宗丸、今福正雄、上田忠好、船戸順らのベテラン悪役が演じる。 ね? もう最高でしょ?
  • 関脇: 白鸚版・吉右衛門版「むかしの女」
    • 初代白鸚鬼平から今日まで50年歴史を有する鬼平シリーズの醍醐味は「違う役者で同じ話を観ること」 「むかしの女」はまさにうってつけ。 白鸚版=沢村貞子、吉右衛門版=山田五十鈴 「作品」としては白鸚版が良い。ただやっぱりベルさんすごいのよ
  • 小結: 錦之介版「はさみ撃ち」
    • 錦之介鬼平は総じて「錦之介が目立たなければいけない」との演出が先走りすぎているものが多い。しかしこれはかえってそれが奏功した。 内田朝雄の抑制的な芝居が光る。 池波正太郎の原作の「淫靡さ」を最もよく表せたのは錦之介版のこれではなかったか。

この番付は単なる順位付けではない。それは、文化の消費者から批評家へと我々を誘う地図である。この深い鑑賞眼を持つことこそ、我々が過去の偉大な作品群から学び、未来の文化を豊かにするための第一歩となるだろう。

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