現代日本が直視すべき「現実」:地政学的地位と歴史認識の根本的誤謬 | 菅野完 朝刊チェック 文字起こし
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現代日本が直視すべき「現実」:地政学的地位と歴史認識の根本的誤謬

2026/1/7(水)朝刊チェック:中国、ほんまめんどくさい。

私が菅野完でございます。朝刊チェックの時間がやってまいりました。頑張っていかなあかんなぁ~言うてるところなんですけど

導入:幻想からの覚醒

現代日本、特にそのリベラルを自認する層に蔓延する現状認識の甘さは、もはや看過できない危険な水域に達している。中国との関係を軸として語られる数々の言説は、我々が置かれた客観的な状況から目を背け、心地よい幻想の中に安住しようとする精神的怠惰の表れに他ならない。今こそ、痛みを伴うとしても、この国の真の姿、その地政学的な地位と力の非対称性という冷徹な現実を直視し、そこから全ての議論を始めなければ、国家の未来を描くことすら不可能である。

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1. 「戦前(昭和16年)のようだ」という安易な比喩の欺瞞性

まず断言しておきたい。「今のきな臭い状況は、まるで戦前(昭和16年)のようだ」という言説。これは単なる歴史的誤認ではない。現代日本が直面する危機の「本質」を完全に見誤らせ、思考停止へと誘う、極めて有害で致命的な言説である。この安易な比喩に潜むのは、過去の日本を現代に投影できるという、根拠なき傲慢さに他ならない。

歴史認識の根本的欠落

特に「平和」や「人権」を口にするリベラル層がこの「昭和16年」という言葉を弄するたび、強烈な嫌悪感を覚える。それは「本当にね、そいつの人生を全て否定したくなるぐらいむかつく」レベルのものだ。日の丸を振っている連中はいい。彼らは所詮「アホ」なのだから。だが、物事を分かっているべき人間が、なぜこんな愚かな過ちを犯すのか。彼らは戦争の起点を昭和16年、すなわち太平洋戦争の開戦に置こうとするが、それは完全な誤りだ。昭和16年という時点は、戦争の始まりなどではない。すでに泥沼化した日中戦争が後期に差し掛かった、破滅への最終局面なのである。このような基本的な歴史的事実すら踏まえずに、したり顔で現状を語ること自体が、知的誠実性の欠如を露呈している。

100年前と現代:「悲劇」と「喜劇」の反転

さらに致命的なのは、100年前と現代における日中間の国力差が「全く逆」であるという現実を無視している点だ。

  • 100年前の「悲劇」 国力で中国を上回っていた日本が、それでもなお相手の実力を過小評価し、戦略的失敗を重ねて泥沼に陥った。これは、これくらいの差しかないのに、これくらいの差があると侮った「過小評価」であり、力がありながら判断を誤ったことによる悲劇であった。
  • 現代の「喜劇」 経済力、軍事力、技術力、あらゆる面で中国が日本を完全に凌駕している。日本がここ(下)で中国がここ(上)であるにもかかわらず、日本側は中国がここ(下の下)にいると思い込んでいる。これは過小評価ではない。「幻覚」である。実力なき者が現実を認識できないでいる喜劇に他ならない。

マルクスの警句:「一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」

カール・マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の中で喝破した。「歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」。

かつての日本が演じたのが悲劇であったとすれば、現在の我々が演じているのは、自らの衰退を認識できずに大国のように振る舞おうとする、惨めで滑稽な「喜劇(Farce)」に他ならない。国力が逆転した現実を理解せず、100年前の物差しで世界を見ようとすることほど、国益を損なう行為はない。

この絶望的なまでの歴史認識の誤りは、単なる知識不足に起因するのではない。それは、この国が自らの成り立ち、すなわち我が国の「国体」が何であるかを根本的に理解していないことに根差している。

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2. 我が国の「国体」の再定義:日米同盟という名の軛(くびき)

多くの日本人が、我が国の「国体」とは万世一系の天皇制であると、半ば無意識に信じ込んでいる。しかし、その通念は戦後日本を規定する構造的現実から目を背けた幻想に過ぎない。この国の真の姿を理解するためには、まず国体の再定義から始めなければならない。

戦後日本の国体=日米同盟

核心を突くが、戦後日本の国体とは「日米同盟」そのものである。この一点を誤解してはならない。

  1. 神話的天皇制の終焉 天孫降臨神話に由来する天皇制は、1945年8月15日をもって一度、明確に終わっている。
  2. 象徴天皇制の保証人 現在の象徴天皇制の存立を担保しているのは、万世一系の血統でも伊勢神宮の神勅でもない。ヤルタ・ポツダム体制という国際秩序であり、その具体的な力の現れが、日本に駐留する在日米軍である。
  3. 結論 したがって、戦後日本の統治構造の根幹を成す「国体」とは、日米同盟以外の何物でもない。

従属という名の国際的地位

この国体、すなわち日米同盟という構造の下で、日本の国際的地位は明確に規定されている。それは独立した主権国家というより、以下のような存在に近い。

  • アメリカの51番目の州以下の存在
  • 立場としてはプエルトリコと一緒
  • ビートたけしがかつて評した「アメリカ幕府の外様大名」以下
  • 江戸幕府で言うたら八丈島の流人みたいなもの

これが、感傷や願望を一切排した、我が国の立ち位置である。そして、この従属的とも言える地位こそが、中国と対峙する上での全ての思考の出発点、絶対的な前提条件となるのである。

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3. 力の非対称性:新聞一面が物語る日本の無力

前章で述べた国家構造という抽象的な概念は、日々、具体的かつ冷徹な経済・戦略上の現実として我々の眼前に突きつけられている。その現実は、日本に残された選択肢がいかに乏しいかを雄弁に物語っている。

一枚のカードが示す絶望的な差

先日、日経、読売、毎日、産経、そして神戸新聞に至るまで、日本の主要各紙が一斉に一面トップで報じたニュースがある。それは「中国による軍民両用品の対日輸出規制強化」だ。この事実こそ、日本の無力さを象徴する出来事である。

我々は自問しなければならない。

「中国の新聞の一面トップに載せられるような制裁を、日本は中国にかけることができるのか? 我々にそのようなオプションはあるのか?」

答えは明白に「否」である。日本が持ちうる対抗策など、「銀魂を見せてあげません」とか、「FC2動画やDMM.com・FANZAへのアクセスを禁止する」とか、「鬼滅の刃を見せてあげないぞ」と駄々をこねる程度の、戦略的価値が皆無なものしかない。これが現実だ。

真の急所は「グラファイト」

世間ではレアアースの規制が騒がれているが、真に深刻な急所は別にある。それは**グラファイト(黒鉛)**である。

  • 用途: グラファイトは、炭素繊維をさらに強化したCCコンポジットの原料となる。これはジェットエンジンのノズル、自動車のブレーキパッド、そして新幹線のパンタグラフの集電に使われる接触材といった、文字通り国家の基幹産業に不可欠な戦略物資である。
  • 代替困難性: レアアースであれば、国内の廃棄物から回収するなどの「貧乏人作戦」で、ある程度は凌ぐことが可能かもしれない。しかし、グラファイトの供給が止まれば、日本の産業は致命的な打撃を受け、その活動を維持することすら困難になる。

100年前の日中戦争で日本が最終的に敗北した要因が、銃弾の応酬(ドンパチ)ではなく、蔣介石が仕掛けた「通貨切り替え」という経済戦略にあったという歴史を想起すべきだ。当時も今も、日本は経済という急所を的確に突かれ、首を絞められているのである。

この圧倒的な力の差という現実を直視せず、精神論や過去の栄光にすがる態度は、愚かしいを通り越して国家的な自殺行為に等しい。我々はこの現実から、どのような結論を導き出すべきなのだろうか。

左右両陣営に共通する病

この病は、日本の左右両陣営に共通して巣食っている。

  • 左側(リベラル):「戦前のようだ」という安易な歴史的アナロジーに逃げ込み、中国との圧倒的な国力差という現代の構造的現実から目をそらしている。
  • 右側(保守): 実力もないのに「反日だ」などと息巻いているが、そもそも相手にすらされていないという現実を理解していない。

両者は表面的には対立しているように見えて、「中国を見くびり、自分たちを過大評価している」という点で、全く同じ傲慢さを共有しているのである。


4. 国家衰退の根源:知性を軽んじる文化と教育の崩壊

日本の対外的な弱体化は、国内の知的な衰退と不可分に結びついている。本を読む人間を馬鹿にし、勉強ができないことを誇るような文化が、国力そのものを内側から蝕んできたのだ。

4.1. 反知性主義の蔓延

我々は、社会の根幹を成す価値観を再確認する必要がある。それは、極めてシンプルかつ冷徹な原則だ。

学校の勉強ができない人間は生きている価値がない。

この言葉を挑発的だと感じるかもしれない。しかし、客観的な知性や知識の集積こそが、社会を前進させる唯一の力である。ペーパーテストの点数という、誰もが同じ土俵で競える客観的指標を軽んじ、「優しさ」だの「創意工夫」だのといった主観的な評価に逃げ込む文化こそが、国を滅ぼす反知性主義の温床なのだ。

4.2. 「内心書」という名の主観的評価の害悪

その最たるものが、日本の中学校に存在する「内心書」制度である。ペーパーテストの成績という客観的指標ではなく、教師の主観によって子供の人生が左右される。これは、公正な競争原理を歪めるだけでなく、子供たちに権力者の顔色を窺う処世術を叩き込む。20代そこそこの教師ごときが、10代の子供の人生を主観で裁断する。こんな馬鹿げた制度が、国家の活力を削いでいるのだ。

主観的評価でさ、内心書が決まる公立の中学とかさ、あんなもん人殺し育成装置ですよ。

4.3. 「親ガチャ」を否定できない社会

そもそも、近代民主主義と資本主義が目指してきたものは何か。それは、「親ガチャ」という不条理を、個人の努力と才能によって乗り越えられる社会を構築することではなかったか。

何のために近代民主主義と資本主義の加合物で社会を統治してるか言うたら、親ガチャを否定するためにやってるんです。

そのための最大の武器が学問のはずだ。**学問というのは親を否定するためにあるんです。**しかし、現在の日本の教育システムは、主観的な評価軸を持ち込むことで、むしろ出自による格差を再生産し、固定化させている。この内なる崩壊から目を背けて、真の国家の再生はあり得ない。

では、この惨状を乗り越えた先に、我々が目指すべき未来とは、どのようなものなのか。

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5. 我々が目指すべき未来:真の対等性と東アジアの精神性

これまでの厳しい批判は、単なる現状否定のためにあるのではない。それは、より建設的で、真に人間的な未来を描くために不可欠なプロセスである。我々日本人が取り戻すべきは、過去の栄光への固執ではなく、隣人と対等に向き合うための知性と精神性だ。

5.1. 精神的課題:「怠惰・不潔・怠け癖」の克服

日本人に課せられた真の課題は、中国に軍事的に対抗することでも、経済的に屈することでもない。それは、自らに巣食う「怠惰と不潔と怠け癖」という宿痾を洗い流し、勤勉に働き、学問を身につけ、正当な対価を得ることである。これこそが、隣国の人々と「対等な付き合い」をするための、最低限の資格なのだ。

5.2. 李白の詩に見る理想郷:「両人対酌山花開」

私が描く理想は、国家間の友好などという大袈裟なものではない。もっと個人的で、文化的な交流の中にある。

普通にね、酒飲んでた隣にね…中国人がおってね、あ、この人中国の人かと思って酒飲んでて仲良くなったらね、2人でさあ、ナプキンの上に李白のさ、「山中にて幽人と対酌す」を書き上げてね、2人でさ、「両人対酌すれば山花開く」とかいう話をして酒を飲みたいんです。

一杯、また一杯と酒を酌み交わし、教養を分かち合う。国籍を超え、ただ個人として尊重し合える関係。それこそが、真に豊かな文化交流の姿ではないだろうか。しかし、現在の日本人の実力不足、教養不足では、それすら叶わないのが現実だ。

5.3. 欧米覇道への対抗軸:「富貴は浮雲の如し」

この個人間の交流は、やがてより大きな東アジアの連帯へと昇華される可能性を秘めている。日中韓の三者が、欧米の物質主義的な覇道を指さしながら、こう嘯くのだ。

後期成獣(富貴)我にあらず

富や権力など、浮き雲のようなものだ――。この精神性を共有し、李白の漢詩で喜び、韓国の伝統の脳遊びをみんなでする。これこそ、東アジアが世界に提供できる、西洋的な価値観とは異なる、もう一つの生き方ではないだろうか。

しかし、最後に厳しい現実を突きつけねばならない。この理想を実現する力は、韓国と中国にはある。だが、今の日本にはそれがない。日本人の教養が、経済力が、そして何よりも勤勉さが、絶望的に足りていないからだ。全ての責任は、我々日本人自身にある。反省すべきは、我々なのだ。

そして政治家に必要なのは、弁舌の巧みさでも、ましてや体力の強さでもない。誰よりもクリアに、冷徹に、現実を直視する能力である。

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