序論:なぜあなたの声は届かないのか
YouTubeやSNSを開けば、今日も無数の「喋り」が洪水のように流れてくる。誰もが発信者となり、情熱的に自らの主張を語る時代。しかし、これほど多くの声が上がっているにもかかわらず、なぜ世の中はそう簡単には変わらないのでしょうか。あなたの熱意ある言葉は、なぜ社会の分厚い壁に吸収され、届くべき場所に届かないのでしょうか。
この記事は、一見すると時代遅れに思えるかもしれない、しかし現代社会を動かす上で極めて本質的な一つの原則を解き明かします。それは、真の力は一過性の「喋り」ではなく、永続性を持つ「文章」にあるという残酷なルールです。この記事を読み終えたとき、あなたは自身の仕事や社会との関わり方について、根本的な見直しを迫られることになるかもしれません。
1. 驚くべき真実:この世は「紙(書類)」で動いている
近代社会や企業といった組織は、一体誰によって動かされているのでしょうか。その答えは、「喋る人」ではありません。核心的な真実は、この世が「文章を書く人」によって動かされているという、揺るぎない事実です。
考えてみてください。会社という組織の意思決定は、口頭での会話ではなく、「報告書と企画書」という文書によって行われます。請求書、領収書、納品書といった、あらゆるビジネス活動の根幹をなすのは全て書類です。ソースコードがシステムを動かすように、この社会は「書類で動く」ように設計された、不可侵の秩序なのです。
この原則を裏付ける、極めてシンプルな観察があります。
菅野氏曰く「偉い奴は全員文章書いてます。」
文章が書ける人間が全員偉いわけではありませんが、その逆は真です。世の中を動かす立場にある人物は、例外なく文章を書く能力を持っています。例えば政界を見渡せば、石破茂氏や岸田文雄氏が文章を書ける人物として挙げられる一方で、かつて権力の座にあった菅義偉氏は「文章書かれへんかなってなってしもうた」、高市早苗氏は「文章書けません」と評され、その能力の欠如が政治的権威の限界と結びつけられています。これは、文章力が単なるスキルではなく、権力そのものであることを示唆しているのです。
2. 知性の証明:優れた文章は「面白くて、意地が悪い」
「偉い人物」が書く文章は、単なる情報伝達のツールではありません。それは書き手の知性、洞察力、そして世界をどう見ているかを示す証明書です。そして、特筆すべきことに、彼らが書く文章は「全部面白いです」。
その好例として、政治家・安住淳氏がLINEマガジンで書いた文章が挙げられます。それは単なる活動報告ではなく、読む者を「ヒヤヒヤする」ほどの緊張感と面白さを持つ「名文」と評されています。例えば、彼はある政界の人間模様をこう記します。

「私は「を」ではなく、「も」と言っている。それがいつの間にか藤田さんの名前が消えて、玉木さんを「を」となって、彼も一躍、時の人だ」
一読しただけでは意味を掴みかねるこの一文こそ、高度な知性の表れです。これは、国民民主党の玉木雄一郎代表が注目を集めるようになった状況を、極めて冷徹かつ皮肉に描写したものです。この文章に込められているのは、ありふれた言葉にはない「都会の嫌味」であり、「悪意と皮肉」です。
このような高度に洗練された表現こそ、物事の本質を見抜く知性の証明に他なりません。それは、誰にでもわかる言葉ではなく、わかる人間にだけわかる鋭さを持っています。
田舎の人には絶対通用しない嫌味
優れた文章とは、このように知的で、時に意地悪なのです。そしてこれこそが、口先だけの扇動とは一線を画す、真の権威者が持つ言葉の力なのです。
3. 破滅への道:「喋り」に頼る者は、なぜ信用されないのか
安住氏のように文章を知的な武器とする権威者がいる一方で、YouTubeなどのプラットフォームで「喋る」ことだけを手段とする人々がいます。この両者の間には、決して埋まることのない決定的な溝が存在します。なぜなら、近代社会の原則から見れば、後者は根本的に信用に値しないからです。
大体YouTubeで喋ってるやつのことを信用する段階で間違いです。
書類で動く世の中を、「口でぶっ壊す」と叫ぶ試みは、原理的に不可能です。それは、コンピューターのOSをハンマーで叩いて修正しようとする愚行に等しい。システム(社会)を動かすルール(書類)を無視した破壊活動は、最終的に「自分自身がぶっ壊れとる」という自己破滅的な結末を迎えます。
その典型が、立花孝志氏らの集団です。彼らの活動は、政策や理念といった「書類」で動く組織的なものではなく、「立花孝志とどっちが仲ええか」という私的な感情に依存する「おままごと」に過ぎません。彼らは近代社会のルール(法律という書類)を無視し、口頭での扇動に頼った結果、まさに「書類」によるシステム、すなわち司法手続きによって社会から排除されつつあります。
彼らの「愚劣さ」は、司法システムにさえ異例の対応を取らせました。警察や検察は、彼らが「全ての想定を下回ってくる」相手であると見なし、裁判で予測不能な弁解をすることを想定。そのあらゆる反論を事前に封じ込めるため、被害者調書を異例の長さで、極めて緻密に作成したのです。これは、システムがその知性を総動員し、「書類」という武器で「喋り」に依存する者たちを組織的に粉砕する、近代社会の防衛本能そのものです。
彼らの知性の欠如と破壊的な衝動を、ある菅野氏は「サリンを作る学力のないオウム」という強烈な比喩で表現しました。この比喩の核心は「学力のない」という点にあります。破壊の意志はあっても、それを実現する知性がない。現に彼らは「私人逮捕は現行犯でなければならない」という基本的な法原則すら理解できなかったのです。知性なき扇動は、社会に害悪をまき散らすだけで、何一つ建設的なものを生み出しません。
4. あなたへの問い:仕事への「真剣さ」は文章に表れる
文章力は、特定の職業だけのスキルではありません。それは、あらゆる仕事における能力と真剣さのバロメーターです。スポーツ選手であれ、宇宙飛行士であれ、教師であれ、自らの仕事に真剣に取り組んでいれば、その経験や洞察を文章に落とし込めるはずだ、という厳しい原則が存在します。
この基準に、あなた自身を当てはめてみてください。
面白い文章を書けないということは、そいつが仕事の能力低いか仕事楽しんでないかどっちか。
この原則こそが、なぜ安住氏のような人物の言葉が重みを持ち、立花氏のような人物の主張が「愚劣」と一蹴されるのかを理解する鍵となります。安住氏の鋭い文章は、彼が政治という仕事の機微を深く洞察していることの証明です。一方で、立花氏らの文章能力の欠如は、彼らの活動が真剣な「仕事」ではなく、社会のルールを無視した単なる「おままごと」であることの証左なのです。仕事への向き合い方が、言葉の質、すなわち文章の質に表れるのです。
結論:あなたの言葉を「文章」にできますか?
ここまで見てきたように、近代社会において「文章」とは、単なるコミュニケーションツールではありません。それは権威の源泉であり、知性の証明であり、社会に影響を与えるための最も強力な手段です。偉い人物は喋る前に書き、その書かれた言葉によって世界を動かしているのです。
このテーマを論じた菅野氏は、自著『陰謀論と排外主義』を、単なる社会評論ではなく、「優れた文章」とは何かを学ぶための「知性の教科書」として推薦しています。菅野氏は、特に書籍の「あとがき」の出来栄えに満足しており、読者に対しては通しで読み進め、最後に後書きを読むことで「はっ」となる体験を推奨しています。
• あとがきは「良かったでしょう」と自賛され、読んだ人が「震えたでしょう」と感じるほどの出来であると評価されています。それは、この記事で論じてきたテーマを、まさに実践によって体現した一冊と言えるでしょう。
最後に、あなた自身に問いかけてみてください。あなたの情熱や主張は、一過性の「喋り」で終わっていませんか?それとも、後世に残るほどの力を持つ「文章」になっていますか? その答えが、あなたがこの社会でどれだけのインパクトを残せるかを決定づけるのです。
人気ブログランキング




コメント