外交における「恥」の喪失――昭和から現代へ、対米従属は如何にして「愛」となったか | 菅野完 朝刊チェック 文字起こし
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外交における「恥」の喪失――昭和から現代へ、対米従属は如何にして「愛」となったか

序論:断絶する世代と変容する「鎖」

2025/11/28(金)朝刊チェック:高市早苗さんこそ令和の新時代に相応しいリーダーだ!!!!

昭和の政治指導者たちがアメリカからの介入を国家的な「恥」と捉え、その回避に努めていたのに対し、現代の政治家や世論の一部が、同様の介入を「共依存」関係における「愛の証」として内面化している――。本論考は、戦後日本における対米外交姿勢の根底に横たわる、この世代間の決定的かつ深刻な断絶を分析するものである。かつて日本の自律性を縛る重荷と見なされた隷属の構造は、今や自己の存在価値を確認するための拠り所へと、その意味は倒錯的な転回を遂げた。この変容は、単なる外交戦術の変化ではなく、日本の国民精神における構造的な地殻変動を示唆している。

この精神史的変遷を読み解くため、本論考ではいくつかの鍵となる概念を分析のツールとして用いる。第一に、アメリカが設定した日本の行動範囲、すなわち思考の「枠」であり行動の「区画」でもある**「アメリカの枠」。第二に、その枠への隷属状態を象徴する「鎖」。第三に、昭和の政治家がその隷属状態に対して抱いていた、国家の尊厳に関わる倫理的規範としての「恥」。そして最後に、現代においてその恥が転化した病理的心理構造としての「共依存」**である。これらの概念を補助線とすることで、目に見えない精神構造の変化が、如何に具体的な外交姿勢として現出してきたかを明らかにしていく。

本論考の構成は以下の通りである。まず第1章では、歴史的基準点として、昭和の政治家たちが共有していた「恥」の感覚と、それが如何に対米外交における自律的制約として機能していたかを論じる。続く第2章では、現代日本が陥った「共依存」という病理的構造を心理学的に分析し、隷属が自己肯定の手段となる倒錯したメカニズムを解明する。第3章では、この精神構造が国際紛争の認識において生み出す「ダブルスタンダード」という具体的な外交的帰結を例証する。そして結論として、この病理を体現する象徴的存在を分析し、日本の精神的自立の行方を問うことで、論考全体を締めくくる。

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1. 昭和の外交規範:「恥」の感覚と自律的制約

現代日本の対米外交姿勢が持つ特異性を理解するためには、まず歴史的な基準点を設定する必要がある。その基準点こそ、昭和時代の政治指導者たちが対米関係をどのように認識し、その中で如何に行動規範を形成していたかという点に他ならない。彼らの精神構造を分析することは、現代との断絶を浮き彫りにするための不可欠な作業である。

昭和の自民党政治家たちは、アメリカからの介入を、第二次世界大戦における敗戦の帰結として背負うべき「払拭できない負債」と深く認識していた。彼らの言葉を借りれば、アメリカによる支配は、日本に課せられた**「日本の首枷であり、手枷・足枷、そして重荷」**であった。この認識は、単なる政治的力関係の理解に留まらず、歴史的負債という痛みを伴う自覚に根差していた。

この歴史認識から生まれたのが、彼らの外交行動を律する核心的な動機、すなわち「恥」という感覚であった。これは単なる個人的な当惑ではない。敗戦の屈辱を経て、国際社会における主権国家としての成熟した姿を見せようとする中で、アメリカから直接的な介入を招くことは、国家の未熟さや不甲斐なさを露呈する集団的な「恥」に他ならなかった。**「そんな恥ずかしい姿を世界にさらし たく ない」という強い意志こそ、国家の尊厳と評判を守るための自律的な行動へと彼らを駆り立てたのである。その結果、彼らは「アメリカの作っ た枠 の中 で 遊び ましょうという 合意」**を内々に形成するに至った。これは、アメリカから「おいコラ!言われる」事態そのものを国家の恥と捉え、それを未然に防ぐために意図的かつ自律的に行動範囲を定めるという、痛みを伴いながらも国家の自尊心を維持するための、極めて機能的な行動規範であった。

結論として、昭和の政治家にとって対米従属とは、直視すべき「恥」であり、自らの手で管理し、極力回避すべき対象であった。しかし、この「恥」の感覚は、時代を経て希薄化し、やがて完全に異なる精神構造へと変質していく。次章では、この感覚が失われた現代日本に立ち現れた、新たな病理を分析する。

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2. 現代日本の病理:「共依存」としての対米外交

本章では、本論考の中心的な主張を展開する。すなわち、現代日本の対米外交姿勢は、単なる政治的従属ではなく、心理学的な「共依存」という病理的構造に深く陥っているという点である。かつて昭和の政治家たちが国家の威信をかけて回避しようとした「恥」の構造は、今や自己の存在価値を確認するための倒錯した儀式へと姿を変えた。

この構造変化の根底にあるのは、昭和の時代には確かに存在した「恥」の感覚が、現代の政治家から完全に失われているという事実である。彼らはアメリカからの介入に対し**「これを恥ずかしいと思ってないと思う」のであり、「その構造に羞恥心がない」**。この倫理的感覚の欠如こそが、日本をより深刻な精神的隷属、すなわち「共依存」の沼へと引きずり込む土台となった。

この対米関係は、ドメスティック・バイオレンス(DV)における**「典型的な共依存」**へと変質した。そのメカニズムは、以下の心理的倒錯によって説明できる。

  • 介入の再解釈: かつて「恥」とされたアメリカからの介入(「おいコラ!」)は、もはや屈辱ではなく、支配者からの関心の表明、すなわち**「愛だと思う」**という心理状態へと転換した。支配的な行為を愛情の証と誤認するこの心理は、共依存関係の典型的な特徴である。
  • 「重要性」の確認: 介入されるという事実は、**「私にはあの人から怒らているほどの重要性があると思いたい」**という、歪んだ自己肯定の欲求を満たす手段となる。支配者から叱責されることで、自らがその他大勢ではなく、気にかけてもらえる「特別な存在」であると錯覚し、安心感を得るのである。
  • 不安の解消: この関係が深化すると、むしろ介入がない状態が精神的な危機をもたらす。支配者から**「忘れられたみたいで不安になる」**ため、定期的な介入や叱責が、自己の存在理由(レゾン・デートル)を確認するために不可欠な儀式と化してしまう。

この共依存マインドは、政治指導者層の孤立した現象ではない。むしろ、**「心と知性の弱い人たち」「人間関係をその隷属でしか結べない人だらけ」となった社会において、その精神構造は広く共鳴し、維持されている。政治における共依存は、社会のミクロなレベルで蔓延する「隷属による自己確認」という欲求のマクロな表現に他ならないのである。それは、自らの隷属状態を誇示しあう「奴隷の鎖を誇る社会」とでも言うべき異様な光景を生み出した。人々は、「いかに自分の奴隷としての鎖が美しいか」を競い合う。そこでは、「私のこの首の鎖ダイヤモンドよ。ご主人様は私にダイヤモンドの鎖をつけてくださるの。愛されているでしょう」**といった誇示が、自己肯定の唯一の手段となる。隷属はもはや恥ではなく、他者に対する優位性を示すステータスへと転化したのである。

要するに、かつて国家的な「恥」として自律的に管理されていた対米従属の構造は、現代において、自己の重要性を証明する「愛の鎖」として誇示される対象へと変質した。この深刻な精神構造の変化が、具体的な外交判断の場でどのような矛盾を生み出すのかを、次章で検証する。

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3. 矛盾の露呈:国際紛争における「鎖」のダブルスタンダード

前章で分析した「共依存」という精神構造は、抽象的な概念に留まらない。それは、実際の国際紛争に対する日本の世論や政治的スタンスにおいて、極めて具体的な論理的矛盾、すなわち「ダブルスタンダード」として明確に表出する。本章では、この矛盾を例証し、その根底にある倒錯した判断基準を明らかにする。

このダブルスタンダードが最も顕著に現れるのが、ロシアによるウクライナ侵略と、イスラエルによるパレスチナへの行為に対する、日本国内の反応の著しい乖離である。もちろん、菅野氏自身、主権国家への侵略は国際法上断じて許されないという原則に基づき、「そのロシアによるウクライナ侵略に 対して それ は 絶対 ダメ だ と 思っ て ます」「ロシアによるウクライナの侵略行為を声 を上げて怒るくせに」、イスラエルの同様の行為に対しては**「パレスチナ人が悪い」**として容認する傾向が「いっぱいいます」。国際法や人道主義という普遍的原則から見れば非対称なこの反応は、一体どこから来るのか。

この矛盾は、論理的失敗というより、共依存マインドの典型的な症状と見るべきである。それは、判断の基準が普遍的な正義ではなく、「鎖の論理」に基づいているがゆえに生じる、必然的な心理的防衛機制なのだ。つまり、ある行為が許容されるか否かは、その行為が国際法に則っているかではなく、**「どの鎖」**が関与しているかという、極めて隷属的な基準によって決定されている。

  • 許容される鎖: イスラエルの行為は、その背後に自らの「主人」たるアメリカの存在を認めることができるため、**「アメリカという名前の鎖だからオッケー」**と見なされる。これは、自らを支配する存在との心地よい関係性を維持するため、その意向に沿う行為を無条件に肯定する心理的メカニズムである。
  • 許容されない鎖: 一方、ロシアの行為は、自分たちが従属するアメリカとは**「違う鎖をつけようとしているから」**許されない。ここでの怒りの源泉は、国際法の蹂躙そのものへの義憤というより、自らが誇る「愛の鎖」の排他性と優位性を脅かす存在に対する拒絶反応なのである。

このように、日本の外交的・倫理的判断は、自律的な国際的視点からではなく、「自分たちの主人であるアメリカの意向」という倒錯した基準によって大きく歪められている。それは、国際社会における普遍的な正義よりも、自らの隷属関係の安定を優先する精神構造の現れに他ならない。この病理を最も象徴的に体現する存在について、最終章で論じることとしたい。

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結論:「裕福な貧困国」の肖像

本論考は、日本の対米外交姿勢が、昭和の政治家たちが抱いていた「恥」の感覚に基づく自律的制約の時代から、現代における「共依存」と「隷属の誇示」が蔓延する病理的段階へと構造的に変遷した様を明らかにしてきた。かつて管理すべき「重荷」であった鎖は、今やその美しさを競い合う「愛の証」と化したのである。

この時代の病理を完璧に体現する存在として、高市早苗氏が「令和の新リーダーに相応しい」と皮肉を込めて評される理由もここにある。彼女のパフォーマンスは、**「心と知性の弱い人たち」「人間関係をその隷属でしか結べない人だらけ」**になった社会の精神構造と寸分違わず合致しているがゆえに、「完璧」なのである。アメリカの枠の中で強硬な姿勢を見せることで主人の関心を引き、介入されることによって自らの「重要性」を確認するという倒錯したサイクルは、多くの人々の心理的欲求を満たす。「完璧ですよ。高市さんには涙ちょ切れるで」という賛辞は、彼女がこの時代の精神を映す、あまりにも正確な鏡であることへの痛烈なアイロニーに他ならない。

この「鎖を愛と錯覚する」精神構造は、日本の未来に暗い影を落とす。国家としての自律的な判断能力を麻痺させ、国際社会における倫理的な信用と尊厳を著しく毀損するからだ。経済的には豊かでありながら、精神的には自律性を喪失し、隷属のうちに安寧を見出す――これこそが、**「裕福な貧困国日本」**という言葉に込められた痛烈な批判の真意である。日本の精神的自立への道は、自らがはめられた鎖を「愛の証」と誇る倒錯から脱し、再びそれを国家の「恥」として直視することからしか始まらない。

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