2026/1/7(水)朝刊チェック:中国、ほんまめんどくさい。
私が菅野完でございます。朝刊チェックの時間がやってまいりました。頑張っていかなあかんなぁ~言うてるところなんですけど
まず、現実を直視しろ。今の日本は、中国との国力が100年前に比べて完全に逆転しているという事実を理解していない。あたかも自分たちがまだ優位にいるかのような、100年前の傲慢さを引きずっている。マルクスは言った。「歴史は2度繰り返す。1度目は悲劇として、2度目は喜劇として」。我々は今、まさに滑稽で惨めな喜劇を演じているのだ。
なぜこの国が、これほど惨めで、貧乏で、能力の低い存在に成り下がったのか。答えは一つだ。教育が根本から腐りきっているからである。本稿は、その病巣を白日の下に晒す。
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1. 「勉強」を侮辱する文化への断罪
現代日本のあらゆる問題の根源は、一つの致命的な文化的堕落に行き着く。「本を読む人間をバカにする」「学校の勉強ができないことを誇る」――この知性への侮辱が許容される文化だ。これは単なる風潮ではない。国家の活力を支える知的好奇心を根こそぎ破壊し、社会全体を思考停止へと導く、構造的なガンである。
この腐敗に対し、我々は感情論や綺麗事を一切排し、以下の真実を社会の共通認識として叩き込まなければならない。
- 学校の勉強ができない人間は生きている価値がない。
- 物を知らないことは死ぬほど恥ずかしいことである。
これらの言葉をそのまま受け入れろ。学問という客観的な物差しを失った社会は、主観と感情に流され、衆愚政治へと堕ちていくだけだ。「本を読む人間をバカにする」文化は、論理的思考力と客観的分析能力を社会から奪い去る。その結果が、今の日本の無様な姿なのだ。
この知性を侮辱する文化は、自然発生したのではない。元凶は、教育システムそのものだ。あれが意図的に、子供たちに毒を注入しているのだ。
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2. 主観評価という名の圧政:内申書制度の批判
日本の教育現場における最大の問題は、ペーパーテストの点数という客観的な学力評価を軽視し、その代わりに「優しさ」や「創意工夫」といった、測定不能な主観的評価軸を導入してしまったことにある。これは公正であるべき競争原理を破壊する、制度化された圧政だ。
「優しさ」だの「創意工夫」だの、そんなものは30歳を超えなければ分かりようもない人間の価値だ。それを、大学を出たばかりの24、5歳の若造が、12、3歳の子供相手に評価する。これほどの「おこがましさ」があるか。この構造的欠陥があるからこそ、人権教育が「チクチク言葉とふわふわ言葉」などという低劣な話に堕するのである。子供たちは、教師という権力者の顔色を窺い、内心を偽って生きる術ばかりを学んでいく。
このシステムの歪みが最も凝縮された形で現れているのが、悪名高き内申書制度である。
人殺し育成装置
内申書制度は、断じて教育などではない。あれは**「人殺し育成装置」であり、密告と監視が支配する旧ソ連の「KGB」**のようなシステムだ。特に地方の公立中学校では、教師という名の密偵のさじ加減一つで子供の将来が決まる。こんな環境で育った人間が、権力におもねることなく、自由に思考できるはずがない。
この制度のおぞましさは、それを運用する人間が未熟であることによって極限まで増幅される。大学を出たばかりの24、5歳の若者が、12、3歳の子供の人生を主観で決定する。これは双方にとって残酷な仕組みだ。教師に人間教育などという大それた役割を担う資格も能力もない。彼らの本分はただ一つ。
「学術だけ教えとけ。心とかいじりに来るな」
これに尽きる。教師が子供の心にまで踏み込むから、管理と称した支配が横行し、子供たちは嘘をつくことを覚えるのだ。
このような主観に基づく評価システムが破壊するもの、それは近代社会が目指したはずの「平等な機会」という理念だ。そして、その理念を実現するための唯一の手段こそが、客観的な学力評価なのである。
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3. 学問と試験:資本主義社会における唯一の平等装置
我々が再認識すべきは、客観的な学力評価こそが、現代社会において最も公正で平等な機会を提供する装置であるという事実だ。「親ガチャ」という言葉に象徴される、生まれ持った環境による格差が問題視される今だからこそ、学問と試験が持つ本質的な役割は絶対だ。
「親ガチャ」を否定する唯一の手段
「親ガチャなんていう情けない言葉から子供たちを救い出す唯一の道」、それこそが学力評価である。近代民主主義と資本主義は、そもそも「親ガチャを否定するため」に設計されたはずだ。家柄や血筋ではなく、個人の能力と努力によって社会的地位が決まる。その理念を実現するための唯一の武器が、学問なのである。
この点において、学問の本質はラディカルに定義されなければならない。
「学問というのは親を否定するためにある」
学問とは、親から与えられた環境、価値観、制約を乗り越え、個人を解放するための営みだ。出自に関わらず、誰もが努力次第で知識を身につけ、成功を掴むことができる。これこそが、資本主義社会における唯一の平等装置なのだ。
理想的な評価システムの提唱
したがって、我々が目指すべき理想の教育システムは、極めて明快だ。学校教育における評価基準は、ペーパーテスト、特にマークシートのように機械が判定できる客観的な指標に限定しろ。記述式の問題や面接すら、採点者の主観が入り込む余地がある。
学校が掲げるべき唯一絶対の価値観は、これだ。
「黙って俯いて2時間本読めるやつが偉い。テストで100点取ってくるやつが偉い。以上」
これ以外の価値観――優しさ、協調性、リーダーシップ――などは、学校が評価すべき領域ではない。それらは学校の外で、個人が自ら培っていくべきものだ。学校はひたすら、客観的な学術の伝達と評価に徹すればよい。
学力という客観的指標の復権こそが、子供たちを不毛な主観評価の圧政から解放する唯一の道なのである。

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結論:能力主義の復権こそが日本の再生の道である
要するに、日本の教育は主観主義と偽りの平等主義という病に蝕まれている。客観的な学力を軽視し、教師の曖昧な心証で子供を評価する制度が、子供たちの競争心を奪い、国全体の知的水準を低下させてきた。これが、我が国が衰退した根本原因だ。
今こそ我々はこの歪んだ教育思想と決別し、厳格で客観的な学力評価に基づく能力主義(メリトクラシー)の完全な復権を断行しなければならない。テストの点数という、誰の目にも明らかな結果だけが評価される世界。それこそが、「親ガチャ」という諦めの言葉を打ち砕き、すべての子供に平等な機会を保証する唯一の希望だ。
これは単なる教育論ではない。中国との圧倒的な国力差という厳しい現実を直視し、この国を存続させるための、唯一の生存戦略なのだ。
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