2026/1/8(木)朝刊チェック:維新とかいう社会のゴミについて
私が菅野完でございます。1月8日 朝刊チェックの時間がやってまいりました。頑張っていかなあかんなぁ~言うてるところなんですけど
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1. 序論:すべての50歳以上の男性は、なぜ「福井県知事」なのか
本稿は、現代社会における中年男性という存在の立ち位置、そしてそれと対をなすかのように現れた、特異な政治的ファンダム(熱狂的支持者層)の本質を解き明かす試みです。我々の議論の出発点は、先日辞任した福井県知事のセクハラ問題にあります。しかし、これは単なる一個人の不祥事として片付けてはなりません。むしろ、50歳を超えた男性という属性が、その存在自体に内在させる構造的な問題を象徴する、極めて重要なケーススタディなのです。
福井県知事はセクハラで辞任しました。一方で、兵庫県の斎藤知事は数々のパワハラが認定されながらもその職に留まっています。セクハラとパワハラは、どちらも職場における「仕事をする権利」を阻害するという点で、本質的に何が違うというのでしょうか。「福井県の知事がやめて兵庫県の知事がやめなくていい理屈」など、本来存在するはずがありません。この単純な矛盾を起点として、我々はより根源的な問いへと向かわなければなりません。それは、「50歳を超えた男性」とは、生物学的、そして社会的に一体どのような存在なのか、という問いです。
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2. 第一部:中年男性の末路 ―「社会のゴミ」としての自覚
2.1. 生物学的視点から見た「50歳越えオス」の不要論
感傷や道徳は脇に置け。ホモ・サピエンスという生物として、50歳以上のオスの価値を冷徹に分析する。残酷な現実を直視することからしか、生存戦略は生まれない。「50を越えた男は酸素呼吸してるだけで福井県知事」であり、「生きてるだけで気持ち悪い」。これは暴論ではない。我々の種に組み込まれたプログラムだ。
なぜなら、ホモ・サピエンスという生物のプログラムにおいて、生殖能力に衰えを見せ始めたオスは、群れにとって「役に立たない」とラベリングされるからです。若い世代、特に女性から「生理的に気持ち悪い」と思われるように、我々の種は設計されているのです。この事実は、他の霊長類との比較によってより鮮明になります。
- 年老いたオスの霊長類: 群れに新たな価値を提供することなく、ただ食料を消費するだけの存在。生物学的に見れば、群れ全体の生存可能性を下げる「不良債権」に他なりません。
- 年老いたメスのホモ・サピエンス: 閉経後も、若いメスの育児を代替するという極めて重要な社会的役割を担います。これは、群れの次世代を育成するという観点から、明確な存在価値が認められる「社会参画の窓口」です。
つまり、50歳を超えたオスは、生物学的な主要任務を終え、かつ代替的な社会的役割も持たないため、若い世代から潜在的に排除されるべき対象として認識されるのです。この冷徹な生物学的現実を自覚することこそが、次章で述べる我々の唯一の生存戦略の出発点となります。
2.2. 唯一の生存戦略:「自分は菅野完だと思え」
前節で提示した絶望的とも言える生物学的前提を踏まえた上で、では50歳以上の男性は、他者への加害者となることなく、いかにしてこの社会を生き抜けば良いのでしょうか。その唯一の心構え、唯一の生存戦略をここに提示します。
その核心的な行動指針とは、**「50を越えた男はね、全員こう思えばいいんです。みんな自分を菅野完やと思えばええんです」**というものです。これは、自らを社会的に最も蔑まれるべき存在だと規定し、常に「お前、その姿で街を歩けるのか、恥ずかしくないのか」と自問自答し続けることを意味します。この徹底した自己客観視こそが、無自覚な加害行為を防ぐ唯一の防御策なのです。
ここで多くの男性が、「いや、木村拓哉や福山雅治はどうなんだ」といった反論を試みます。しかし、そうした「ホモサピエンス界が産んだ奇跡みたいなやつ」を一般論の俎上に載せる思考こそが、醜悪な自己欺瞞に他なりません。大谷翔平がいるからといって、日本人全員がメジャーリーガーになれるわけではない。特殊事例を持ち出して自己を正当化しようとする、その浅ましさ。「お前のその思考が、お前を『菅野完 × 土曜日の明け方の渋谷の道玄坂の道端に落ちてるゲロ』以下にしてるんです」。
結論は明確だ。諦観し、自覚しろ。**「お前らは菅野完なのだ」と。俺の視聴者の大半がそうであるように、「社会の不良債権たる何の役にも立たんクソキモいオヤジ」**なのだと。この痛みを伴う自己認識を受け入れたとき、初めて我々は他者、特に若い世代に無用の害悪を振りまくことから解放されるのです。
さて、この中年男性に求められる厳しい自己認識の欠如は、実はまったく別の集団にも、形を変えて現れています。次に、その病理を分析していきましょう。
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3. 第二部:斎藤知事支持マダム層の異様性 ―「推し活」ではない「当事者意識」の病理
3.1. 通常のアイドルファンとの境界線

兵庫県の斎藤知事を熱狂的に支持する中年以上の女性層、通称「斎藤マダム」の分析に入る前に、比較対象として、一般的なアイドルのファン心理、いわゆる「推し活」の構造を定義しておく必要があります。
例えば、BTSや旧ジャニーズのアイドルグループを応援する50代、60代のファンを見てみましょう。彼女たちの感情は、対象と恋愛関係を結びたいと願う「ガチ恋」とは一線を画しています。その心理は、むしろ**「美術品を愛でる」感覚や、「河原でキラキラ光る石を見つけた男の子」**の純粋な喜びに近いものです。そこには、対象との適切な距離感が保たれており、あくまで自分は鑑賞者であるという健全な自己認識が存在します。
彼女たちに共通する決定的な特徴は、自分自身がステージの向こう側の存在、つまり「プレイヤー」であるとは決して思っていない、という点です。この、ステージと客席を隔てる「境界線」の認識。これこそが、健全なファンダムと、これから論じる斎藤マダムという病的集団を分かつ絶対的な一線なのである。
3.2. プレイヤー気取りの支持者 ―「フィクサー」という自己認識
「斎藤マダム」たちの行動は、前述した「推し活」の枠組みでは到底理解できません。彼女たちの異様性は、「ガチ恋」「嫁きどり」「子宮で考えてる」といった、ありきたりで安直な言葉で説明できるものではありません。問題は、もっと構造的な自己認識の歪みにあります。
彼女たちの行動原理の核心。それは、「自分達が言論活動をしているつもり」「自分達をプレイヤーだと思ってる」、究極的には**「自分達をフィクサーだと思ってる」**という点に集約されます。
彼女たちは、SNSでの罵詈雑言や情報の拡散を、本気で「言論活動」であると信じ込んでいます。そして、私のような批判者を見つけると、あろうことか喜び勇んで『議論しよう』と絡んでくる始末だ。これが極めて『田舎者』的な自己認識の歪みであり、SNSに何かを書き込むだけで、我々と同じ土俵に立っていると本気で錯覚しているのである。
この分析から導き出される結論は、彼女たちの行動は単なる「応援」や「推し活」ではない、ということです。それは、自らを政治プロセスに直接介入する「当事者(プレイヤー)」であり、裏で糸を引く「フィクサー」であると規定する、歪んだ自己認識に基づいた、極めて特殊な政治行動なのです。
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4. 総括:自己客観視の欠如がもたらす社会的害悪
本講演で論じてきた二つの事例――自らを「社会のゴミ」だと自覚できない中年男性と、自らを「フィクサー」だと気取る政治家支持者――は、一見すると全く異なる問題に見えるかもしれません。しかし、その根底には**「自己客観視の致命的な欠如」**という、共通の病理が横たわっています。
生物学的な役割を終えた自身の社会的立ち位置を客観視できない男性は、ハラスメントという形で個人的な加害を引き起こします。一方で、政治の単なる支持者である自身の立場を客観視できず、プレイヤーであると錯覚する人々は、健全な政治的議論の土壌を破壊するという社会的な加害を引き起こします。前者は個人の尊厳を、後者は民主主義の健全性を蝕む、極めて危険な存在です。
結局、お前は何者なのだ? 生物学的な役割を終えた社会のゴミか? それとも、政治を動かしていると錯覚している哀れなフィクサー気取りか? 鏡を見てよく考えろ。どちらにせよ、お前が思っているよりずっと醜い現実がそこにあるはずだ。

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