菅野完「四宮神社集団参拝」の核心。斎藤元彦を撃つ完璧な作法 | 菅野完 朝刊チェック 文字起こし
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権威への礼法:四宮神社集団参拝という名の高等戦術

2026/1/6(火)朝刊チェック:ベネズエラの件でトランプを支持できちゃうようなクソ弱者を指差して笑うオールドメディアの底力

記事の要約と図解

【結論】 1月14日の神戸・四宮神社における「集団参拝」は、単なる抗議活動ではない。それは「完璧な所作」と「圧倒的な教養」によって、権威を笠に着た野蛮な勢力(斎藤知事や宮司、迷惑系YouTuber)を無力化する、高度な知的戦闘であった。我々が示したのは、「まともな人間」が連帯した時の、静かで恐るべき破壊力である。

【ポイント3選】

  1. 武器としての「完璧な作法」: プラカードも怒号も不要。300人の「黒留袖・礼服」の列が放つ威圧感は、いかなる暴力よりも雄弁に、相手の「品性のなさ」を断罪した。
  2. 祝詞という名の「弾丸」: 神聖な形式を借りて斎藤知事を「禍事(マガゴト)」と定義する。この皮肉な「踏み絵」により、神社の政治的中立性という虚構を内側から食い破った。
  3. 知性による「野蛮」の駆逐: 「間」や「所作」を理解できない連中(アンチ・知性)に対し、我々は「文化の厚み」で圧倒した。これは今後の政治闘争における唯一にして最強の勝ち筋である。

私が菅野完でございます。朝刊チェックの時間がやってまいりました。頑張っていかなあかんなぁ~言うてるところなんですけど。

さて、本日は一つの計画についてお話しさせていただく。来る1月14日15時、兵庫県庁2号館前から神戸・四宮神社へ向かう「集団参拝」である。これは単なる抗議活動ではない。斎藤元彦兵庫県知事の問題、そしてそれに連なる四宮神社の宮司が象徴する「田舎の権威主義」という病巣に対し、我々がいかにして知的かつ皮肉に満ちたメスを入れるか、その周到に設計された高等戦術の全貌を、ここに開示するものである。

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1. 戦術としての「完璧な作法」― 敵の土俵で敵を圧倒する技術

この集団参拝計画において、我々はプラカードも拡声器も手にしない。我々の唯一にして最大の武器は、「完璧な参拝作法」である。なぜ物理的な抗議ではなく、儀礼的な形式が戦術の核となるのか。それは、敵が最も重視する(と自称する)土俵に上がり、そのルールを敵以上に完璧に実践することで、相手の存在そのものを無効化するためである。

作法の武器化

「二礼二拍手一礼」。この一連の所作は、信仰心の発露としてではない。相手、すなわち四宮神社の宮司やそれに連なる県政の権威主義者たちの「教養のなさ」を白日の下に晒し、心理的優位を確立するための**「武器」**として用いられる。男性は礼服、女性は黒留袖やそれに準ずる服装。この厳格なドレスコードは、我々が単なる「野蛮な反対派」ではないことを無言のうちに証明する。それどころか、それは参加者を単なる抗議者から、忘れ去られた正統性を実践する敬虔な徒へと昇華させる。この視覚的な優位性の前に、神社側によるいかなる排除の試みも、単に不寛容であるだけでなく、教養を欠いた野蛮な行為として映ることになる。

皮肉の構造

興味深いことに、私自身は現代の神社作法を「気持ち悪い」「明治以降に生まれたよくわからないもの」と断じている。一部は細木数子の影響でここ20年ほどで定着した「知ったかぶり」のルールに過ぎない。しかし、我々はこの「気持ち悪い作法」を、あえて完璧に演じてみせる。これこそが**「徹底的な面従腹背」**である。相手が設定した、歴史的に浅く根拠の薄い土俵のルールを逆手に取り、完璧に演じきる。それは、相手に一切の反論を許さない状況を創り出すための、冷徹なパフォーマンスに他ならない。

対比による論証

かつて立憲民主党の野田佳彦氏が伊勢神宮を参拝した際の、柏手が揃わない「ダサい」「なっていない」作法が批判された。中途半端な実践は滑稽なだけだ。「やるなら徹底的に美しくやる」。この美学こそが、空虚な権威に対抗する上で不可欠なのだ。我々が示す完璧な所作は、宮司の粗野な振る舞いや排他性を際立たせ、「あなたの方が人間としてのレベルが低い」という無言のメッセージを突きつける。

この完璧に磨き上げられた作法という名の銃身に、我々はどのような弾丸を装填するのか。それが次の主題である。

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2. 祝詞という名の弾丸 ― 神聖な形式で最大の侮辱を伝える方法

我々が求めるのは、単なる「知事退陣」という政治的要求ではない。我々はその要求を、「祝詞(のりと)を奏上する」という極めて神聖な宗教的儀式の形式を借りて表明する。この行為は、その形式の神聖さゆえに、比類なき攻撃性と皮肉を内包するのだ。

祝詞の分析

当日、我々が神前で奏上を依頼する祝詞は以下の通りである。

この祝詞の核心は、「とりわけ、兵庫の県の禍事の根幹 / 斎藤元彦を」という一節にある。これは斎藤知事を単なる政治的対立者としてではなく、兵庫県に蔓延るあらゆる災いの根源そのものとして断罪し、社会から浄化されるべき**「禍事、罪、穢れ」**、すなわち不浄なものとして定義する行為である。最も丁寧な宗教的言語を借りて、これ以上ない侮辱を相手に叩きつける。これこそが、知性と皮肉の極致である。

宮司への「踏み絵」

この祝詞の奏上依頼は、四宮神社の宮司にとって逃げ場のない二択を迫る罠として機能する。

  1. 拒否すれば:完璧な正装と作法で訪れた礼儀正しい参拝者を追い返すことになり、自身の「不寛容さ」と「宗教者としてのレベルの低さ」を公に証明することになる。
  2. 受け入れれば:自らが仕える神の前で、「斎藤元彦という穢れを祓え」という儀式を主催・許容したことになる。

どちらに転んでも、彼が守ろうとする権威は失墜する。

構造的皮肉

さらに忘れてはならないのは、宗教法人の所轄庁が兵庫県知事であるという事実だ。知事の監督下にあるはずの神社で、その知事の排除を神に願う。この行為は、行政構造そのものを内側から食い破る、極めて悪質なジョークなのである。

では、なぜこのような大胆不敵な戦術が、この四宮神社という場所だからこそ正当化され得るのか。その答えは、神社の歴史という名の虚構を解体することで明らかになる。

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3. 神社の虚構 ― 「聖域」の皮を剥ぐ歴史的解体

四宮神社の宮司個人を批判するだけでは不十分だ。我々は、彼がよじ登っている権威の梯子そのものを、根元から断ち切らねばならない。そのためには、神社という「聖域」の皮を剥ぎ、その歴史的出自、すなわち「虚構」の正体を暴く必要がある。

プロパガンダ装置としての起源

神戸に存在する一宮から八宮までの神社群。これらは古代からの自然な信仰の場ではない。その多くは、明治政府が神功皇后の「三韓征伐」伝説を政治利用し、**朝鮮半島侵略を正当化するために作られた「人工物(アーティフィシャル)」であり、「プロパガンダ神社」**に他ならない。日清・日露戦争期、大陸進出の論理的根拠を国民に刷り込むためのメディア装置。それがこれらの神社の本質である。これが連中の言う「日本の美しい伝統」の正体である。笑止千万、という他ない。

「明治のタリバン」による文化破壊

そもそも明治政府による廃仏毀釈神社合祀は、タリバンによる文化財破壊にも等しい蛮行であった。彼らは、天皇家の祖神(天つ神)の系譜に連ならない、日本古来の多様な土着信仰(産土神や鎮守の森)を「小さな神様」として徹底的に破壊し、天皇中心の「国家神道」という均質的なイデオロギーを植え付けた。

奈良の石上神宮に併設されていた

壮大な内山永久寺が、水戸藩出身の宮司によってわずか3ヶ月で跡形もなく破壊されたのは、その暴力性を象徴する一例である。我々が今日、奈良公園で鹿がのどかに歩む芝生を目にするが、あの場所すら、かつて興福寺の壮麗な塔頭を潰した破壊の跡地なのだ。連中の言う「伝統」とは、かくも暴力的な破壊の上に成り立っている。

正当性の剥奪

つまり、四宮神社とは、そもそもが「侵略戦争を正当化するためにできた」政治的施設なのである。そのような場所を、現代の我々市民が、現代の「悪」と見なす権力者を排除するための政治的パフォーマンスの舞台として利用することに、何の躊躇が必要だろうか。むしろ、それは歴史的な文脈に沿った、極めて正当な行為とさえ言える。

このような「腐った器」には、果たしてどのような水が溜まるのか。神社の歴史的本質が、現在の宮司の人物像にどう結びつくのかを、次に見ていこう。

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4. 宮司という名の病理 ― 「田舎のおっさん」と権威の正体

四宮神社の宮司個人への批判は、単なる悪口ではない。それは、現代日本社会が抱えるより大きな病理、すなわち「日本のダメな田舎のおっさん」という問題の象徴を分析する作業である。

人物像の分析

寄せられた情報によれば、この宮司は「教養も知性もない」「ミソジニーまみれ」「レベルが下」といった言葉で評される人物だ。彼の問題の本質は、本来持っていないはずの能力と権限を振りかざし、市民を上から目線で裁定(ジャッジ)しようとする姿勢にある。それは、滑稽を通り越して、もはや哀れな思い上がりと言うべきだろう。彼の霊的能力など「志村けんの神様コント」以下であり、市民をジャッジする行為は、素人が大谷翔平のバッティングフォームに文句をつけるようなものである。その傲慢さは、神社の土地を私物であるかのように錯覚し、「私の土地から出ていけ」と放言する点にも表れている。

「下水の法則」という必然

しかし、彼の資質の低さは個人の問題に留まらない。前章で論じたように、この神社は侵略戦争を正当化するプロパガンダ機関の残骸である。「あらゆる下水は最終的に同じところに集まる法則」の通り、「腐った器」には、それにふさわしい人物が収まる。彼の存在は、この神社の歴史的出自が生んだ当然の帰結なのだ。この法則を理解するならば、我々市民がこの種の権威やその担い手に対し、過剰な敬意を払う必要など微塵もないことがわかる。彼に異を唱えることは、宗教への冒涜などではなく、淀んだ水路を清掃するがごとき、健全な市民による衛生作業に他ならないのだ。

「アンチ」の逆転

宮司は、県政に異を唱える市民を「アンチ」と見なすだろう。だが、真実は逆だ。新しい価値観や多様性を受け入れられず、排他的な態度をとる彼こそが、健全な市民社会にとっての**「アンチ(敵対者)」**なのである。先進国の価値観を理解できない権威主義者こそ、社会から出ていくべき存在なのだ。

虚構の権威の上に立つこの男の化けの皮を剥がす方法は、一つしかない。我々自身が、彼らの土俵で、彼らには到底到達できない完璧な形式を演じきることだ。

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5. 結論:知性と礼節による権威の解体

この四宮神社集団参拝計画は、単なる抗議活動ではない。それは、虚構を以て虚構を制す、高度な知的遊戯である。我々は、**捏造された作法(明治以降の神社礼法)**を完璧に演じ、**武器と化した祈り(祝詞)**を奏上することで、**捏造された聖域(プロパガンダ神社)**の上に君臨する、**捏造された権威(宮司)**を解体するのだ。

空虚な権威に正面から罵声を浴びせるのは無粋の極みだ。我々が実践するのは、より高度な戦術である。例えるならば、こうだ。

無礼な店主がいるレストランに対し、店の外で「辞めろ」と叫ぶのではない。 超一流のドレスコードで入店し、最高のテーブルマナーで食事をしながら、優雅に「この料理長が早く更迭されますように」と乾杯の音頭をとるのだ。

形式が丁寧であればあるほど、その内包する攻撃性と皮肉は鋭さを増す。我々の行動は、相手の品格のなさと権威の空虚さを、誰の目にも明らかにするだろう。これこそが、知性と礼節によって権威を解体する、我々の戦術である。

2026/1/13日 追記

2026/1/14日 追記

2026/1/15 追記

1/15(木)朝刊チェック:立憲x公明新党の成否はひとえに立憲民主党野田佳彦グループの「度量の広さ」にかかっている

2025年1月14日、神戸の地に集った人々の姿は、現代日本が忘却しつつある「あるべき社会の姿」を鮮烈に描き出しました。警察発表で300名を超える動員を記録したこの集会は、単なる政治的示威活動ではありません。それは、失われつつある「所作」や「間」といった、日本人のDNAに深く刻まれた文化コードを再定義する戦略的な試みであったといえます。何より、あれだけ厳しいドレスコードを課しながら、これほど質の高い人々が集まったという事実に、私は希望を見出さずにはいられない。本稿では、この神戸での出来事を起点に、現代社会の深層で起きている「知性と野蛮の相克」について、情念を込めて論じていきます。

今回の神戸集会において、私が何よりこだわったのは「和装・ドレスコード」という極めて高い文化的障壁の構築でした。これは単なる懐古趣味ではない。現代の野卑な言論空間に対する、冷徹なまでの政治的知略なのです。このドレスコードがあったからこそ、あの増山のような迷惑系YouTuber、あるいは「社会の掃き溜め」と呼ぶにふさわしい野蛮な連中は、現場の空気に圧倒され、文字通り「無効化(むこうか)」されました。300人以上の和装・正装の人々が整然と並ぶその光景は、怒号や暴力を振るうまでもなく、彼らを心理的に制圧したのです。上品さ、すなわち「所作」を整えることは、それ自体が強靭な防壁となる。現場で見られた「行儀の良さ」は、単なるマナーの範疇を超え、日本人が古来より大切にしてきた、聖域に足を踏み入れる際の「参拝」の精神そのものでした。この圧倒的な所作の制圧力こそが、野蛮に対する知性の勝利であると断言できます。

この神戸の現場で、私は何度も「ようお参り」という言葉を口にしました。関西の古い文化、とりわけ法事の文脈で交わされるこの一言には、相手を迎え入れる深い慈しみと、共有される空間への敬意が凝縮されています。ここで想起すべきは、古典落語の極北『立ち切れ線香』です。私が14、15歳の頃、初めてこの噺を聴いた時、あまりの美しさに「引き付け(ひきつけ)」を起こすほど泣き崩れたことを今でも覚えています。若旦那が放つ「ようお参り」という一言、そして姿なき小糸の三味線が勝手に鳴り始め、あの「雪」の唄が流れる瞬間。これこそが、ホモ・サピエンスが紡ぎ出した物語の「究極の美学(きゅうこくのびがく)」であり、頂点なのです。効率主義に汚染された現代の即物的な言葉とは一線を画す、身体的な「情」の重み。この所作の真髄を知らぬ層、すなわち「社会の掃き溜め」のような連中には、この言葉の響き一つ理解することは叶わないでしょう。

言葉の重みは、身体的なリズムである「柏手(かしわで)」へと繋がります。現代人は何でも早さを競い、情報の密度ばかりを追求しますが、神社で打たれる柏手は不思議なほど全国共通で「ゆっくり」としています。パンパンと早く叩けばいいのではない。「パン、パン」というあの独特のスピード感、音と音の間に漂う「間」にこそ、日本人の精神性が宿っています。これは米を食う民のDNAが、無意識のうちに共有しているリズムなのです。「何もないところ(間)に情報がある」という日本語の本質、この「間」を解さない根無し草たちが、今の日本を地獄へと導いています。彼らには、神前で柏手を打つ一瞬の静寂を耐えるだけの知性も、文化的な厚みも欠如している。この所作の欠如が、現在の政治的混迷、すなわち「知性と野蛮の対立」に直結しているのです。

今、この国で最大の「アンチ」となり得るのは、本を読み、原稿を書き、上品に振る舞うという「当たり前の知性」に他なりません。斉藤鉄夫氏は東工大・プリンストンの博士であり、志位和夫氏は東大の物理学徒です。彼らのような「賢い」インテリゲンチャが放つ「知性の暴力(ちせいのぼうりょく)」こそが、現代の野蛮を駆逐する唯一の武器となります。本を2時間も読み続けられず、原稿用紙5枚すら書けないような「猿」たちが喚き散らす現代社会において、知性とは、相手に自らの無知を恥じさせ、存在を後悔させるほどの破壊力を持つのです。一方で、立憲民主党の野田佳彦氏は、こうした「知性の重み」という点ではいささか「役不足(やくぶそく)」と言わざるを得ない。知性こそが「逆革命」の旗印となるべき時代において、我々は今一度、この圧倒的なまでの「賢さ」という暴力を再評価しなければなりません。

最後に、政治の下部構造(かぶこうぞう)の要請について触れておきましょう。立憲民主党と公明党の連帯の動きは、単なる数合わせの正極ではありません。資本対労働という政治の根源的な対立軸において、労働者や庶民を基盤とする勢力が本来の姿に戻る、いわば「下部構造の要請」なのです。我々に必要なのは、思想的純潔さを競うことではなく、まずは「まともな社会人としての所作」と「知性の共有」をベースにした緩やかな連帯です。所作が完璧でなければ、政治という高度な営みは決して社会にはまりません。日本社会がこれ以上の地獄化を防ぐための唯一の戦略的回答は、失われた「間」と「知性」を、そして「ようお参り」と言い合えるあの情愛を取り戻し、既得権益の象徴たる自民党を「ささらもさら」に解体することにあります。

我々が「所作」を整え、知性の暴力を磨き続ければ、道は必ず拓ける。 頑張っていかなあかんなぁ、言うてるところなんですけどね。

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