2026/1/8(木)朝刊チェック:維新とかいう社会のゴミについて
序文
私が菅野完でございます。1月8日 朝刊チェックの時間がやってまいりました。頑張っていかなあかんなぁ~言うてるところなんですけど
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1. 福井県の先例:説明責任を果たしたセクハラ辞任事案
政治家のハラスメント問題が次々と噴出する中、福井県の前知事によるセクシャルハラスメント事案は、その対応プロセスにおいて、政治家が果たすべき説明責任の「基準」を示す重要な先例となった。告発を受けて即座に辞任し、その後、第三者の手によって事実関係を徹底的に公表したこの事例は、問題の幕引きを急ぐのではなく、事実そのものと真摯に向き合う姿勢がいかに重要かを我々に突きつけている。
この事案の経緯は、あるべき責任の取り方として極めて明快だ。流れはこうだ。①告発 → ②即時辞任 → ③第三者委員会による事実認定と公表。まず、知事によるセクハラ行為の訴えが明るみに出た瞬間、知事本人がその職を辞した。しかし、話はそこで終わらなかった。福井県が「偉かった」のは、辞任後に第三者委員会を設置し、事実関係を調査させ、実際にハラスメント行為があったことを正式に認定し、公表したことだ。
辞任の直接的な引き金となったのは、知事が職場関係者に送信した、以下のメールである。

辞任をもって問題をうやむやにする政治家が多い中、福井県の対応が評価される核心はここにある。一個人の辞任劇で終わらせず、組織として何があったのかを客観的に認定し、公にするプロセスを踏んだのだ。これは被害者への誠意を示すと同時に、社会全体に対して「このような行為は断じて許されない」という明確なメッセージを発信する上で、極めて重要な意味を持つ。

この福井県で示された基準が、なぜ他の事例では適用されないのかという疑問が生じる。
2. 兵庫県の問題:説明責任の欠如
説明責任を全うした福井県の先例とは対照的に、兵庫県の斎藤元彦知事を巡る事案は、説明責任の欠如を象徴するケースとして我々の前に横たわっている。福井の知事がセクハラという一つのハラスメントで即座に職を辞したのに対し、斎藤知事は複数の公的機関からパワーハラスメントを認定されながらも、その職に固執し続けているのだ。
斎藤知事のパワーハラスメントは、以下の二つの公的な委員会によってその存在が明確に認定されている。
- 兵庫県自身が設置した第三者委員会によるパワハラの認定
- より強い調査権限を持つ兵庫県議会の百条委員会によるパワハラの認定
さらに重要なのは、斎藤知事自身も、パワーハラスメントの存在があったことを認めているという事実だ。公的機関による「クロ」の認定と、本人による事実の承認。これだけの材料が揃いながら、なぜ責任を取って職を辞すという結論に至らないのか。この状況に対し、以下の根源的な問いを投げかけざるを得ない。
「福意県の知事がやめて兵庫権の知事がやめなくていい理屈というのがあるんであれば是非教えてください」
まさにこの問いこそが、兵庫県で起きている問題の本質を突いている。福井県の知事も「ご指摘は真摯に受け止めます」「襟を正してまいります」と言っておけばよかったのだろうか?一体どういう理屈なのか。そんな言葉を繰り返すだけで具体的な責任を取らない姿勢が許されるのであれば、福井県で示された説明責任の基準は、もはや何の意味も持たなくなる。
3. ハラスメントの本質:「仕事をする権利」の阻害
議論を福井県と兵庫県の個別事案の比較から、ハラスメントそのものの本質へと深化させることが重要だ。セクシャルハラスメントとパワーハラスメントという行為の種類の違いを理由に、責任の重さを論じることは、問題の核心を見誤らせる。
セクハラとパワハラは、形態こそ異なるものの、職場において行われた場合、その本質的な悪質さにおいて同等に断罪されるべきだ。両者は、被害者が尊厳を持って安全に働く権利を根本から脅かすという点で完全に共通している。
その根拠は極めてシンプルだ。これらの行為が断じて許されないのは、被害者の「仕事をする権利を阻害するから」に他ならない。職場とは、人々が生活の糧を得るため、そして自己実現を果たすために能力を発揮すべき場所だ。ハラスメントが横行する環境は、被害者の精神を蝕み、萎縮させ、本来のパフォーマンスを不可能にする。これは単なる人間関係のトラブルなどではなく、個人の生存権や職業生活を営む基本的な権利に対する重大な侵害行為なのである。
この問題は、権力を持つ男性の振る舞いという、より根源的なテーマへと繋がっていく。
4. 結論的考察:斎藤知事に欠如する「自分が気持ち悪い」という自覚
一方で斎藤知事の態度は、この自己客観視が完全に欠落していることを示している。彼に欠けているのは、自らの行動が他者の「仕事をする権利」をいかに侵害したかという想像力であり、その根源には、自分自身が社会からどう見られているかという痛烈な自己認識の欠如がある。この決定的な違いこそが、一方が責任を取り、もう一方が職に固執するという、二人の知事の対照的な姿を生み出しているのだ。

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