中指と抗議の作法:菅野完氏の言説から読み解く表現の自由と論理の罠 | 菅野完 朝刊チェック 文字起こし
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中指と抗議の作法:菅野完氏の言説から読み解く表現の自由と論理の罠

2026/1/9(金)朝刊チェック:どうやら維新は崩壊のフェーズに突入したようです

序文:著者の紹介と問題提起

私が菅野完でございます。1月9日朝刊チェックの時間がやってまいりました。頑張っていかなあかんなぁ~言うてるところなんですけど

ジャーナリストであり、著作家でもある菅野完氏。彼のYouTubeチャンネルで発せられるこの挨拶は、日常の皮を被った現代社会への鋭利なメスである。本稿は、単なる侮辱のジェスチャーと見なされがちな「中指を立てる」行為を起点に、その表現が持つ政治的・文化的射程を、菅野氏の言説を解剖することで深く掘り下げる。

この行為を巡る議論は、決まって「品性」や「作法」といった表層的な批判に回収され、その背後にある権力への抵抗という本質を巧妙に覆い隠す。本稿が問うのは、行為の是非ではない。このジェスチャーを巡る言説の分析を通し、表現の自由、抗議の作法、そして、議論がいかにして骨抜きにされていくかという現代的な病理を暴き出すことこそが、本稿の目的である。

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1. 文化・表現論:中指を立てるという作法

このセクションでは、「中指を立てる」という行為が、文化的な文脈によっていかにその意味を変えるかを分析する。菅野氏が喝破するのは、この行為が単なる「品性」の問題ではなく、政治的抗議における正当な表現手法として確立されているという事実だ。日米間の認識の差異は、単なる文化の違いに留まらず、抗議のボキャブラリーそのものの貧富を浮き彫りにする。

日本における「下品」という批判への反論の分析

日本社会で中指を立てる行為は、「下品だ」「アメリカでは危険だ」という紋切り型の批判に即座に晒される。菅野氏は、こうした言説を「嘘」の一言で斬り捨て、**「手を握ったら妊娠すると言うてるぐらいおぼこい」**と、その認識の驚くべき幼稚さを一蹴する。

彼が暴き出すのは、こうした批判が、行為の「対象」と「意図」を意図的に無視する構造だ。菅野氏にとってこのジェスチャーが向けられるべき対象は明確である。すなわち、「レイシストとか愛国者とか日の丸振ってるやつとか社会の敵」だ。これらの勢力への怒りや抵抗という本質を問わず、表層的な作法論に議論を矮小化する態度は、抗議の牙を抜くための欺瞞に他ならない。菅野氏に言わせれば、それは「母親の経血の充満した子供部屋」から一歩も出たことのない者のルサンチマンに過ぎず、そもそも議論の土俵にすら上がっていないのだ。

欧米における一般的感覚の解説

対照的に、欧米、特にアメリカにおいて、このジェスチャーは極めて日常的な表現語彙の一つである。菅野氏はこれを**「体操」**程度のものだと表現し、日本で想像されるような禁忌性を全く持たないと断言する。それは、怒りや軽蔑をストレートに表明するための、文化的に根付いた身体言語なのである。

だからこそ、日本人が同じ行為をすると、過剰な力みから**「必死」に見え、結果として「ダサい」と映るのだと菅野氏は分析する。文化に根付いていない表現は、不自然な気負いを伴う。彼が提唱するのは、もしこの表現を用いるならば、「緩くナチュラル」**に、あたかも呼吸するかのように行うべきだという姿勢だ。それは、表現が文化的に完全に体得されて初めて可能になる境地と言えるだろう。

セクションの結びと移行

このように、同じジェスチャーが内包する意味の重層性は、文化的な土壌によって劇的に変化する。この認識の断絶が、現実の政治的抗議の場でいかなるダイナミズムを生むのか。次のセクションでは、米国で起きた実例を通し、この表現が持つ政治的な力を具体的に検証する。

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2. 米国ミネアポリスにおける実例:政治家たちの抗議

前章で論じた文化的な差異が、単なる認識の違いに留まらないことを、米国ミネアポリスの事例は劇的に示している。ここでは、公人である市長が発する「中指」が、いかに正当かつ強力な政治的言語として機能するかが明らかになる。

事件の背景の整理

東京新聞(共同通信配信)が報じた事件の概要はこうだ。ミネソタ州ミネアポリスで、ICE(移民税関捜査局)が大規模な不法移民摘発作戦の最中、捜査に非協力的な女性を射殺した。菅野氏が指摘するように、この事件は複数の政治的文脈を背負っている。第一に、現場はジョージ・フロイド氏が警官に殺害された地であり、市民の間に公権力への根深い不信感が渦巻いていた。第二に、トランプ政権が民主党の牙城を選んで強硬な摘発を行い、「民主党支配地域は治安が悪い」という印象操作を狙う政治的意図があった。

市民の死は、単なる偶発的な悲劇ではなく、政治的な抑圧の象徴として受け止められたのである。

ミネアポリス市長の反発とその意味の評価

この事態に対し、ミネアポリス市長は記者会見で怒りを爆発させた。彼は**「ICE get the f*** out of Minneapolis(ICEはミネアポリスから失せろ)」**と叫び、トランプ政権に向けて明確に中指を立ててみせたのだ。

菅野氏が強調するように、これは感情的な暴発などではない。市民の生命を守るという公人としての責務に基づいた、断固たる政治的意志表示である。欧米の文脈において、この行為は「下品」な逸脱とは見なされない。むしろ、権力に対する抵抗のシンボルとして機能するのだ。会見に同席していた手話通訳者も、市長の言葉を訳す中で同様のジェスチャーをしていたという事実は、その正当性を象徴している。

シカゴ市長による連帯メッセージの分析

ミネアポリス市長の行動は孤立しなかった。隣接する大都市シカゴのブランドン・ジョンソン市長は、即座に連帯を表明するメッセージを発信した。これは、一市長の個人的な行動が、他の政治家からも支持される正当な抗議手法であることを証明している。

菅野氏はさらに、ジョンソン市長の用いた英語が**「全部中学英語の単語」**で構成されていた点に着目する。これは、権威的な言葉で大衆を煙に巻くのではなく、誰にでも理解できる平易な言葉で語りかける、真に民主的な政治家の姿勢を示すものだと分析する。市民と共有できる言葉で抵抗の意志を連帯させることこそ、リーダーシップの本質なのである。

セクションの結びと移行

このように、正当な政治的抗議として機能する表現でさえ、その是非を巡る議論の場では、論点が巧妙にすり替えられ、無力化されることがある。次章では、その議論を歪めるレトリックの罠を解剖する。

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3. 論点のすり替え:対人論証の誤用批判

この最終セクションでは、菅野氏の言説に向けられた「対人論証だ」という批判を俎上に載せ、特定の論理用語がいかに議論の本質を逸らすためのレトリックとして武器化されるか、その実態を分析する。

議論のすり替えプロセスの再現

配信中、菅野氏は中指を立てる行為を文化背景を無視して「下品」だと断じる人々を、その視野の狭さから「田舎者」と評した。これに対し、ある視聴者から「それは対人論証だ」との指摘が入る。この一言は、議論の争点を「中指を立てる行為の是非」から「菅野氏の論法の正当性」へと瞬時にすり替える試みだった。

菅野氏は即座に反撃する。「具体的に誰の名前を挙げて論じたのか」「(配信の)何分何秒か」と、対人論証が成立するための具体的な証拠を突きつけたのだ。これは、論理用語を軽々しく振りかざすことで議論の本質から逃亡しようとする相手の戦術を、論理によって暴くカウンターであった。

対人論証の定義と菅野氏による論駁の解説

菅野氏は広辞苑を引用し、「対人論証」の定義を提示する。

対人論証: 論者の主義、性格、地位、職業などを利用してその議論を論難したり弁護したりする論法

この定義に照らせば、「田舎者」という彼の発言は対人論証には当たらない。彼はこの点を、**「『1+1は8である』というやつはバカである」**という痛快な比喩で解説する。これは、「1+1=8」という誤った主張をする人物の人格そのものを論難しているのではなく、その主張自体が「バカげている」と評価しているに過ぎない。同様に、「田舎者」という表現も、特定の個人への人格攻撃ではなく、「文化背景を無視して中指を批判する」という主張や視点が内包する「田舎者的」な視野の狭さを批判したものだ。論理的に何ら破綻はない。

セクションの結び

菅野氏の一連の応酬が暴き出したのは、批判者が「対人論証」という「覚え立ての言葉を使いたがる」ことで、本来対峙すべき本質的な問いから逃げているという構造そのものである。彼は視聴者にこう突きつける。「あなたがやるべきなのは何があっても中指を立てては いけないということを 立証することです」。論理用語の誤用は、議論を深めるどころか、自らの主張の不在を糊塗するための煙幕として機能する。その欺瞞を、菅野氏は容赦なく引き剥がしたのである。

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結論:表現の本質を見抜くために

菅野完氏の言説を辿る旅は、一つのジェスチャーが、文化論、政治表現、そして論理的欺瞞といった多層的な論点を内包していることを明らかにした。抗議の「作法」や「品性」を問う批判は、一見すると正論のようだが、その実、抗議の「内容」と「対象」から目を逸らさせ、抵抗の声を封殺するための極めて政治的な戦略として機能している。

文化背景によって表現の受容は異なる。しかし、その表層的な「品性」だけで思考を停止させるのではなく、その表現がどのような文脈で、誰に向けられ、何を訴えているのかという本質を見抜く批評的視座が、今ほど求められている時代はない。議論の作法を声高に叫ぶ声は、しばしば、議論そのものを殺すための最も効果的な武器となる。その構造を見破ることこそ、表現の自由を守るための第一歩なのである。

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