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第1回:「人殺し」発言の波紋と、それを叩く「田舎者」の正体

麻袋からこぼれ出した泥付きのジャガイモの山の上に、静かに目を閉じた白い彫刻の顔が置かれているシュールな光景。

6/13土曜雑感:バカだなぁ。菅野は。「人殺し」って言った時点で負けなんだよ(冷笑)

  1. 【完全版】動画タイムスタンプ&要約辞書
  2. 「人殺し」発言の波紋と、それを叩く「田舎者」の正体
    1. YouTubeの枠間違いと29歳の青年から始まった自省的思索
    2. 「共産党は人殺し」――Twitterに溢れるレッテル貼りと認知の歪み
    3. 綾瀬コンクリート殺人事件と民医連から飛躍する「田舎の弱者」の論理
  3. 都会と田舎の境界線――他者との距離感を喪失した社会の病理
    1. 運動場から東京タワーと六本木ヒルズを見上げる都会の小学校での原風景
    2. 陸軍大佐の偉功と性的指向を混同する「村社会」の冷酷さ
    3. 兵庫県知事を「個人」と錯覚し、対人論で論理をすり替える精神的未熟さ
  4. マルクスが看破した「孤立した大衆」と剥き出しの民主主義の恐怖
    1. 『ブリュメール18日』に見る、地方小作農が凡庸な独裁者を求める構造
    2. 現代日本の「無党派層」と完全に一致する、じゃがいも一袋分の不気味な連帯
    3. 多数派の外部が存在しない「正誤判断の劣化」と、ソクラテスに飲ませた毒杯
  5. リベラリズム(自由主義)という防波堤の不在が生むディストピア
    1. 自由民主党(LDP)の「L」が意味するものと、自由と民主の根源的敵対関係
    2. 高市早苗の国会答弁抹消要求の横暴と「自由のない民主党(社民党化)」への道
    3. 完全比例代表制の理想郷がもたらす極端化――尿漏れ老人リベラルの罪
    4. イスラエル国会の「レツゴー三匹」化――中道が消滅した超民主主義の末路
  6. リベラリズムの核心――「他人のことをほっとく」という成熟の境地
    1. 北欧諸国で独裁が起きない理由と、イスラエルとの決定的な市民意識の断絶
    2. LGBTQの権利と布団の中の役割――社会に影響を与えない個人の自由への不干渉
    3. 次回予告:戦後国会に眠る「明治の日法案」のファニーな真実と大人の議論
  7. 💡 編集後記:もう一段深い核心へ

【結論】

政治論評で「人殺し」という言葉を使う危うさを踏まえつつ、公人への真っ当な批判を「個人への攻撃」とすり替える田舎の弱者たちの精神的未熟さを断罪。民主主義の暴走を防ぐためには「他人のことをほっとく」自由主義の精神が必要不可欠であると論じる。

【ポイント3選】

※特級比喩: ナポレオンのデスマスクの下にヘドの出る凡庸な顔を隠した商人物(マルクス引用)

※比喩・論点: 自他の境界線を喪失し、他人の寝室事情に執着する「田舎者」の病理

※ファクト: 完全比例代表制がもたらしたイスラエル国会の極端化とディストピア化

【完全版】動画タイムスタンプ&要約辞書

【クリックで展開】全208箇所のタイムスタンプと要約を表示(動画の取扱説明書)

「人殺し」発言の波紋と、それを叩く「田舎者」の正体

YouTubeの枠間違いと29歳の青年から始まった自省的思索

配信は、YouTubeの配信枠の設定を間違えたことに対する平謝りという、ひどく間の抜けた滑り出しから始まった。自らを「バカな菅野完」と自嘲しながら、前日の夜に飲食店で偶然隣の席になり、意気投合した青年の話へと話題は滑り込んでいく。その青年は29歳だった。極めてしっかりとした受け答えをするその青年の態度に触れ、話者は己の過去を省みざるを得なかった。29歳という年齢は、すなわち30歳という大台の1個手前である。ひたすら悩み抜き、目も当てられないほど愚かだった過去の自分と、目の前の青年の成熟ぶりをシニカルに対比させつつ、話者はやがて本題へと足を踏み入れる。自らを「バカな菅野完」と自嘲した直後、政治論評の場において公人に「人殺し」という言葉を投げつけることの危うさと、それでもなお避けられなかった言論戦の真理について語り始める。

  • 02 0:01:04 [視点]29歳のお兄ちゃんへの遭遇と、ひたすら悩み抜いていた過去の自分
  • 「共産党は人殺し」――Twitterに溢れるレッテル貼りと認知の歪み

    政治論評の世界で「人殺し」という言葉を安易に使うべきではない。それは法的リスクを伴う危険な行為であり、公の場で放てば瞬く間に訴訟の対象となり得る。話者はその常識を完全に理解した上で、あえて世間に蔓延る異常な実態を冷徹に暴き出す。彼が実際に兵庫県知事に対して「人殺し」と言い放ったのは6月3日の記者会見でのことだが、その影響を完全に排除するために、Twitter(現X)の検索期間をuntil検索で5月31日までに区切り、「共産党」と「人殺し」という単語をダブルクォーテーションで厳密に指定して検索をかけたのだ。結果は驚くべきものであった。そこには

    共産党は人殺し

    共産党って人殺し集団なんですね

    といった、極めてカジュアルで狂気的な罵詈雑言が溢れ返っていたのである。さらに話者は、3月16日に発生した辺野古での転覆事故によるバイアスすらも排除すべく、検索期間を3月10日まで遡って再設定する念の入れようを見せた。

    その検索結果の中には、中国共産党の幹部たちに与えられたとされる「10年」のビザの有効年数を持ち出してまで無理やり日本共産党を叩くような、支離滅裂なツイートまで散見された。ネット上の「田舎の弱者」たちは、自らの認知の歪みに無自覚なまま、息を吐くように共産党を人殺し集団だと連呼している実態がある。

    • [▶ 0:02:12] [警告]政治論評における「人殺し」という言葉の法的リスクと危うさ

    綾瀬コンクリート殺人事件と民医連から飛躍する「田舎の弱者」の論理

    この「共産党は人殺し」というレッテル貼りの根底にあるのは、論理的飛躍と全称命題の狂気だ。話者はその典型例として、あの凄惨な綾瀬コンクリート殺人事件を引き合いに出す。すでに事件発生から25年近くが経過しているにもかかわらず、主犯格が犯行に及んだ家の親が共産党員であったというただ一点のみをもって、

    犯人の親が共産党やったら共産党人殺しやねん

    と短絡的に結びつける異常性を、話者は

    What the fuck

    と呆れ果てながら弾劾する。さらには、すすきの首切り事件という猟奇事件においても同様の狂気が見られる。死体損壊を手助けしたとされる父親が民医連(全日本民主医療機関連合会)の関係者であったため、田舎の弱者たちの脳内では「民医連=共産党」と即座に変換され、だから共産党は人殺しなのだという無理筋な論理が平然と展開される。世の中の「頭のええ人」や人権について語る人間を、思考停止のまま全て共産党に結びつけ、

    何でもあの山のせいにする

    落語のネタのように責任をなすりつける。近代法治主義も民主主義も全く理解していない田舎の弱者からの的外れなクソコメントに対し、話者は

    ファシストを人殺しって呼ぶのって抵抗運動の初歩の初歩なんじゃないの

    と一刀両断にし、公人への真っ当な批判を「個人への攻撃」だとすり替える擁護論の欺瞞を打ち砕くのである。

    • [▶ 0:05:45] [構造]綾瀬コンクリート殺人事件の連想ゲームに見る全称命題の狂気
    • [▶ 0:12:34] [挑発]「個人への攻撃」という的外れな擁護に対する反論:公人の限界と定義

    都会と田舎の境界線――他者との距離感を喪失した社会の病理

    運動場から東京タワーと六本木ヒルズを見上げる都会の小学校での原風景

    話者は、自らが「田舎者」という言葉を使う際の厳密な定義を語るため、自身の生い立ちと都会での子育ての経験を鮮やかに対比させる。彼の原風景は、奈良の凄まじい田舎である。実家から通う小学校までは1km半ほどの距離があったが、そのわずか1km半を歩く間に、否応なく古墳を5つも踏んで通らなければならなかったという圧倒的な田舎の記憶だ。野良犬や野良猫の骨なのか、あるいは人間の骨なのかもわからないものが転がっている畦道を歩いて育った話者は、やがて東京へ出て家庭を持ち、子供を都会の公立小学校へと通わせることになる。その小学校の運動場からは、東京タワーがそびえ立ち、そのすぐ隣には六本木ヒルズが見えるという、圧倒的な都市の象徴が日常の風景として存在していた。3つ歳の離れた2人の子供たちが同じ小学校に通い続けた合計9年間、学校行事へ行くたびに話者は田舎者根性を丸出しにして

    わあ、すごいな

    と感嘆の声を漏らしていた。そして息子が5年生か6年生になった時、ついに冷ややかに言い放たれる。

    パパもそんなことばっかり言ってんの本当にキモい

    高層建築物といえば天理にある天理教の教団本部くらいしか見たことがなかった彼にとって、それは自己の内に潜む田舎者性をシニカルに自覚させられる決定的な一言であった。

    • [▶ 0:17:11] [本質]息子から言われた「キモい」の一言と、自己の田舎者性のシニカルな自覚

    陸軍大佐の偉功と性的指向を混同する「村社会」の冷酷さ

    しかし、話者が真に軽蔑し、糾弾する「田舎者」とは、地理的条件や建物の高さで決まるものではない。それは「自分と他人の境界線」を喪失し、他者との距離感を決定的に掴み損ねている精神的未熟さのことである。その病理を説明するため、話者は昭和49年生まれである自身の視点から、戦後からの距離感がまだ30年、40年しか経っていなかった頃の、村社会の冷酷なエピソードを披露する。彼の祖父の村には、戦前に陸軍官学校を出て陸軍大佐にまで登り詰めた、村中の尊敬を集める英雄がいた。その大佐には優秀な息子が3人おり、日本の最高学府である東京大学や慶應義塾大学へと進学し、優雅で金持ちな生活を送っていたという。幼い頃、祖父と風呂に入りながら

    大佐さんってすごいね

    と純粋な感嘆を漏らした話者に対し、祖父は吐き捨てるようにこう言ったのだ。

    あかん、おかまやねん

    大佐が同性愛者であったというただその一点のみをもって、陸軍大佐としての偉功も、息子たちを育て上げた実績も、一瞬にして全否定してしまう田舎の思考回路。性的指向と社会的業績は全く無関係であるという、まともな社会人であれば当然理解できる境界線が、田舎者には全く見えていないのだ。

    • [▶ 0:25:22] [本質]大佐さんの偉功と性的指向は無関係――これが理解できないのが田舎者

    兵庫県知事を「個人」と錯覚し、対人論で論理をすり替える精神的未熟さ

    この「他者との距離感の喪失」こそが、兵庫県知事・斎藤元彦を擁護する連中の本質的な病理であると話者は断罪する。告発文書の真偽という公的な問題に対し、「県民局長が不倫をしていた」という全く無関係な対人論を持ち出せば論理をすり替えられると本気で信じているその精神性は、まさに大佐の性的指向で偉功を否定した田舎の村社会と完全に一致している。

    公人としての限度を超えた権力者を批判しているにもかかわらず、知事を単なる「個人」と錯覚し、「個人を攻撃するな」と的外れな擁護を展開する者たち。そんな連中は、地理的には東京や京都に住んでいようとも、精神においては紛れもない「田舎のクソ弱者」なのだ。外山恒一が「多数派が勝つに決まっている」と冷酷に言い放ったように、自他の境界線を喪失した田舎者たちが剥き出しの民主主義の中で群れをなすとき、社会は取り返しのつかない狂気へと向かっていくのである。

    • [▶ 0:29:13] [論理]「田舎者と民主主義、都会の人と自由主義」というツイキャス評の完璧な対応

    マルクスが看破した「孤立した大衆」と剥き出しの民主主義の恐怖

    『ブリュメール18日』に見る、地方小作農が凡庸な独裁者を求める構造

    リスナーからの

    田舎者と民主主義、都会の人と自由主義が対応しそう

    という極めて知的なコメントに我が意を得た話者は、この対立構造の歴史的背景を証明するために、マルクスの名著『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を鮮やかに引用する。100年、いや130年、140年前のフランス・パリにいながら、マルクスはリアルタイムで地方小作農の心理と民主主義の恐怖を冷徹に分析していた。マルクスは、偉大なる伯父の威光を借りているだけの独裁者ルイ・ボナパルトの本質を、

    ナポレオンのデスマスクの下に、そのヘドの出るほど凡庸な顔を隠した

    小人物であると徹底的にこき下ろした。しかし、なぜそのようなグロテスクで中身の空っぽな男が絶対権力を掌握できたのか。それは、あらゆる階級のクズや残骸、そして何よりも人口構成の最大層である「地方小作農(田舎者たち)」が彼を熱狂的に支持したからである。彼らは地域的な繋がりしか持たず、自らを階級として組織し、議会を通じて自らの利益を代表させることができない。自らを代表できない孤立した大衆だからこそ、彼らは上から自分たちを守り、日光を恵んでくれる「無制限の絶対権力」を自ら求めて隷属していくのである。

    • [▶ 0:34:50] [分析]140年前のマルクスの地方農民分析と、現代日本の「無党派層」の完全な一致

    現代日本の「無党派層」と完全に一致する、じゃがいも一袋分の不気味な連帯

    マルクスが140前に看破したこの地方農民の心理構造は、驚くべきことに、現代日本の「無党派層」の本質と完全に一致している。彼らには連帯もなければ共通の思想もない。しかし、いざ選挙となれば、ポピュリズムに煽られてゴソッと一斉に同じ方向へと投票行動を起こし、凡庸な独裁者に絶大な権力を与えてしまう。マルクスはこの個を持たない大衆の不気味さを、実に素敵で恐ろしい比喩を用いて表現した。すなわち、

    じゃがいも一袋分のじゃがいもが、自然と一袋のじゃがいもを作るように

    彼らはただ袋の中に詰め込まれただけの無機質な集団として、圧倒的な数の暴力で社会を飲み込んでいく。

    • [▶ 0:38:12] [警告]民主主義が孕む恐怖:多数派の外部が存在しないという正誤判断の劣化

    多数派の外部が存在しない「正誤判断の劣化」と、ソクラテスに飲ませた毒杯

    剥き出しの民主主義が孕む真の恐怖とは何か。それは「多数派の外部が存在しない」ということだ。多数決によって全てが決まる社会では、正誤の判断基準が著しく劣化する。「みんながそうしているから」という理由だけで、道徳的にも法的にも間違ったことが正当化されてしまう。それは古代ギリシャの時代に、剥き出しの民主主義の熱狂が個人の尊厳を圧殺し、偉大なる哲学者ソクラテスに毒杯を飲ませて殺害した狂気の歴史そのものである。多数決で決めていいことと、絶対に決めてはいけないことの境界線が消滅した社会は、容易にファシズムへと転落していくのだ。

    • [▶ 0:42:01] [分析]純粋な資本主義が消滅し、すべての国家が修正資本主義へと移行した思想背景

    リベラリズム(自由主義)という防波堤の不在が生むディストピア

    自由民主党(LDP)の「L」が意味するものと、自由と民主の根源的敵対関係

    この民主主義の暴走を食い止めるために、近代の西側諸国が編み出した知恵が「自由主義(リベラリズム)」という防波堤(キャップ)である。冷戦期、アメリカや日本などの西側諸国は自らを決して「民主主義陣営」とは呼ばず、「自由主義陣営」と名乗る知的ラベリングを行った。本来、個人の尊厳を守る「自由主義」と、多数決による暴力の危険を孕む「民主主義」は、根源的に敵対する概念である。我が国の与党である自由民主党が1955年に結成された際にも、この2つの対立概念が透明の中に同居することとなった。ニューヨーク・タイムズが自民党を「LDP(Liberal Democratic Party)」と表記する時、その頭文字の「L」はリベラルを意味している。民主主義というエンジンに対して、自由主義というブレーキを必ずセットにしなければならないという統治哲学が、そこには込められていたはずなのだ。

    • [▶ 0:48:28] [挑発]高市早苗が総理になるべきという逆説:自民党を「自由のない民主党」にする道

    高市早苗の国会答弁抹消要求の横暴と「自由のない民主党(社民党化)」への道

    しかし現在の自民党は、その「L(自由主義)」を完全に喪失し、民主主義の熱狂だけで動くポピュリズム政党へと劣化しつつある。その象徴が、高市早苗による前代未聞の横暴である。彼女は週刊文春によって自らの虚偽が暴かれると、謝罪も再質疑も拒否し、自らが署名・捺印して確定したはずの国会の速記録から、自分に都合の悪い答弁を「ただ1行抹消してくれ」と要求した。国会のルールと法治主義の根幹を無視したこの傲慢な振る舞いに、ある国会議員は

    高市さんは今年初当選だったんだよ

    と痛烈な皮肉を浴びせた。話者はあえて逆説的に、民主主義の熱狂で選ばれた高市早苗が総理になるべきだと挑発する。そうすれば自民党は完全に「自由のない民主党」へと落ちぶれ、福島みずほしかいない社民党と同じ「社民党化」の末路を辿ることになるからだ。

    • [▶ 0:54:22] [本質]高市自民党が辿る「社民党化」の末路と、戦争で最後に勝つ自由主義の法則

    完全比例代表制の理想郷がもたらす極端化――尿漏れ老人リベラルの罪

    自由主義のキャップを外し、民主主義の純度を極限まで高めるとどうなるのか。その残酷な答えが、現代のイスラエルである。イスラエルは「完全比例代表制・死票なし・一院制」という、世界で最も民主的な選挙制度を採用している。これは、週刊金曜日や東京新聞を読んで喜んでいる思考停止したオールドリベラル層、すなわち

    食べるご飯の量よりも、尿漏れの方が多い年寄り

    たちが夢見る理想郷のシステムである。しかし、死票がなく小さな声でも確実に議席を持てるというその超民主主義的な制度がもたらした結果は、中道派がごっそりと消滅し、極端な思想を持つ超保守派と極左しか生き残れないディストピアであった。日本で言えば、国会の中に杉田水脈と大石あきこしか存在しないような、対話が一切成立しない狂気の空間が完成してしまったのである。

    • [▶ 0:58:55] [結論]極端な人間しかいない国会が生まれる、剥き出しの民主主義のディストピア

    イスラエル国会の「レツゴー三匹」化――中道が消滅した超民主主義の末路

    極端な小政党の連立でしか政権を維持できないイスラエルの国会は、もはや混沌の極みである。話者はその凄まじいカオスを、伝説の漫才師・レツゴー三匹の破綻の美学に例えて嘲笑う。リーダーが真面目な話をしている横で、正児が「白樺青空南風」と歌い出し、じゅんが「ルーキーに貸した金返せ!」と叫び続ける。3人が全く違う主張を同時に展開し、わずか2分間で収拾がつかなくなり破綻していくあのめちゃくちゃな漫才こそが、今のイスラエル国会の姿なのだ。それは現代のオードリーの漫才の源流でもあり、演芸の歴史を遡れば「お笑いおしゃべりミュージック」で一世を風靡したかしまし娘の名人芸にも通じる多声的構造である。しかし、演芸の世界では芸術となるその構造も、国家の最高機関で展開されれば、単なる機能不全のディストピアでしかないのである。

    • [▶ 1:07:13] [論理]同じ「完全比例代表一員性」なのに北欧諸国で独裁が起きない決定的な理由

    リベラリズムの核心――「他人のことをほっとく」という成熟の境地

    北欧諸国で独裁が起きない理由と、イスラエルとの決定的な市民意識の断絶

    では、なぜ同じ「完全比例代表一院制」を採用している北欧の国々では、イスラエルのような極端な独裁や混乱が起きないのか。話者はその決定的な理由を、市民社会の成熟度の違いに見出す。北欧の議会を支え、運営しているのは、自由主義の概念を深く理解し、社会の基盤として共有している「自由主義者」たちなのだ。一方でイスラエルは、剥き出しの民主主義しか知らない人々が民主主義を運営しているからこそ暴走する。この彼我の差は絶望的であり、話者はシニカルに

    我が国にはあと600年無理なんちゃうかな

    と切り捨てる。リベラリズム(自由主義)の核心とは、極めてシンプルに言えば「他人のことをほっとく」という成熟の境地である。自分と他者の境界線を正しく引き、社会の運営に直接関わらない個人の領域には決して踏み込まないという、確固たる市民意識の存在が問われている。

    • [▶ 1:09:22] [挑発]我が国にはあと600年無理――リベラリズムの核心「他人のことをほっとく」

    LGBTQの権利と布団の中の役割――社会に影響を与えない個人の自由への不干渉

    「他人のことをほっとく」というリベラリズムの概念を、話者は土曜日の配信で中学生も聞いているという配慮からオブラートに包みつつも、極めて泥臭く、身も蓋もない比喩を用いて解説する。LGBTQの人権問題に対する田舎者たちの異常な執着を冷笑し、

    前の穴に入れるか後ろの穴に入れるか気になんのか

    そこらのお兄ちゃんが猫ひろしなのか舘ひろしなのか気になんのか

    と矢継ぎ早に問い詰める。個人の寝室事情や性行動の役割など、社会に何の影響も与えない。

    舘ひろしが布団に入ったら猫ひろしになったところで、誰になんか影響あんねん

    この極論にして完璧な例え話は、他者の布団の中の出来事にまで口を出さずにはいられない田舎者の異常な精神構造を痛烈に炙り出し、個人の自由に対する完全な不干渉こそが真の成熟した社会の条件であることを証明しているのである。

    • [▶ 1:11:52] [闇]土曜日だからオブラートに包む表現と、他人の寝室事情に執着する病理

    次回予告:戦後国会に眠る「明治の日法案」のファニーな真実と大人の議論

    長大な政治論評と空腹の限界を超え、極上のプッタネスカで満腹を満たした話者は、配信の最後にシニカルな次回予告を挟み込む。現在、国会で日本会議の主導により、11月3日を「文化の日」から戦前の「明治の日」に戻そうとする法案が策動している。かつての天長節から文化の日へと変わり、実に60年もの長きにわたって国民の祝日として定着してきたこの日をめぐる議論は、戦後直後の国会にその原点がある。当時の議事録には、およそ現代の我々からは想像もつかないほど大真面目で、かつあまりにも正論であるがゆえに腹を抱えて笑ってしまうような滑稽でファニーな議論が眠っているのだという。子供のお子様ランチに立つ日の丸問題よりも切実で、それでいてどこか可笑しい大人たちの本気の議論。話者はその戦後議事録の爆笑のプレビューをほのめかしながら、「昼寝をする」と言い残し、土曜日の雑感を煙に巻くようにエンディングへと導いていくのである。

    • [▶ 4:46:27] [結論]次回予告をシニカルに締めくくり、昼寝へと消える土曜雑感のエンディング

    💡 編集後記:もう一段深い核心へ

    たもっちゃん
    たもっちゃん

    ここまで読んで、「なるほど、他者の布団の中にまで口を出す田舎者の異常な精神構造と、個人の自由に対する完全な不干渉こそが真のリベラリズムなんやな」で満足してページを閉じるなら、そら別に構いません。一つの事実ではありますからね。

    ただ、権力側が何の抵抗も受けずに、この自他の境界線を喪失した「剥き出しの民主主義」をリングのど真ん中で続けたら、次は何が起きるか。政治の世界の「知性の劣化」が、さらに教養を完全に喪失した権力者のグロテスクな自己愛と無恥にまで波及していくんです。

    何千人もの県職員をマネジメントする50代のトップが、なぜ記者会見という公衆の面前で「本を読まない」と悪びれもせず公言してしまうのか?そして、気に食わない一介のジャーナリストを叩き潰すために「民事」ではなくあえて「刑事」で告訴せざるを得なかった裏に潜む、5年間も隠避され続けた住所の闇とは一体何なのか?

    事実を認めれば責任問題が発生する、かと言って認めなければ論理が完全に破綻する。もうね、脳内OSが完全に処理落ちを起こしてブルースクリーンになってるわけですよ。バグだらけの仕様書をリングのど真ん中で振り回してる姿は、ハッキリ言って哀れですらありますね。

    この次の地獄のフェーズについては、続く第2回でみっちり解剖してます。今の惨状を「田舎の弱者による数の暴力」だけで終わらせず、もう一段深く知りたいという奇特な方は、そのまま第2回も覗いてみてもらうと、より絶望の解像度が上がるんちゃうかなと思いますわ。

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