プロレスラーの美学と政治家の失格――「清潔感」と「自己認識」をめぐる考察 | 菅野完 朝刊チェック 文字起こし
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プロレスラーの美学と政治家の失格――「清潔感」と「自己認識」をめぐる考察

2026/1/6(火)朝刊チェック:ベネズエラの件でトランプを支持できちゃうようなクソ弱者を指差して笑うオールドメディアの底力

序文:朝刊チェックと現代政治への嘆き

私が菅野完でございます。朝刊チェックの時間がやってまいりました。頑張っていかなあかんなぁ~言うてるところなんですけど

さて、本稿で論じたいのは、現代の政治家、特に野党の先生方を見ていて常々感じる「何かが決定的に足りない」という感覚の正体です。この正体を解き明かすために、一見すると全く無関係に思える「プロレスラーの美学」という、私独自の視点を持ち込みたい。巷で安易に使われる「清潔感」という言葉の本質とは一体何なのか。そして、その「清潔感」がなぜ政治家の資質、もっと言えば「本物」か「偽物」かを見分けるリトマス試験紙となり得るのか。この問いから、現代政治が抱える根深い病理を炙り出していきます。

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1. 「プロレスラーの清潔感」の正体――規律と美学の再定義

まず、本稿で用いる「清潔感」という言葉の定義を明確にしておきましょう。これは単に風呂に入っているか、洗濯された服を着ているかといった衛生状態を指すものではありません。ここで言う「清潔感」とは、プロフェッショナルとしての**「規律」「美意識」**が身体の外にまで滲み出ている状態の謂いです。そして、その理想的な体現者こそが、往年のプロレスラーたちなのです。

彼らが放っていた独特のオーラ、すなわち「清潔感」が何によって構成されていたのか。それは以下の二つの要素に分解できます。

  • 身体に合った服を着るという基礎能力 武藤敬司、ジャンボ鶴田、藤波辰爾といったレジェンドたちを思い出してください。彼らはたとえカネのない若手時代であっても、常に「服のサイズが合っていること」を徹底していました。これは単なるお洒落ではありません。人前に立つ人間として、自らの身体を客観的に把握し、それに最適な外装を選ぶという、極めて基本的な自己管理能力、すなわち「基礎能力」の表れです。この基礎能力こそが、視覚的な美しさの源泉となるのです。
  • 日常から滲み出る規律 外見的な美しさは、付け焼き刃では決して身につきません。それは「掃除をする姿」といった、何気ない日常の振る舞いにこそ宿る「規律」が自然と滲み出た結果です。つまり、プロレスラーの清潔感とは、その生活態度そのものが外見に反映されたもの。日々の鍛錬と自己管理が、その立ち姿に品格を与えるのです。

これらの分析を総括するならば、「プロレスラーの清潔感」とは、「常に人に見られている」というプロ意識から生まれる、弛緩なき緊張感(張り)と、細部にまでこだわる美学の表れであると言えます。元プロレスラーの馳浩氏がいい例です。彼は国会議員時代までは、その「美しさ(張り)」を保っていた。しかし知事になった途端、その緊張感が失われ、見る影もなくなってしまった。この美学とは、それほどまでに繊細で、維持し続けねばならないプロの覚悟の謂いなのです。

そして、この「プロレスラーの美学」という基準は、現代の政治家を評価する上で、いかに痛烈で、かつ的確な批判軸となるか。考えてみてくださいよ。自分の身体に合った服すら選べないような美意識と規律の緩んだ人間たちに、国家の舵取りという緻密な仕事ができるとは到底思えない。話にならんのです。

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2. 野田佳彦の悲劇――完璧なスーツと致命的な自己誤認

前章で定義した「プロレスラーの美学」という物差しを、具体的な政治家に当てはめてみましょう。ここで取り上げる野田佳彦氏は、極めて深刻な矛盾を内包した人物です。彼は稀有な「外見的資質」を持ちながら、致命的な「戦略的資質の欠如」によってその価値を自ら毀損してしまっている。その悲劇を、彼の伊勢神宮参拝という一つの事象から徹底的に分析します。

なぜ、野田氏の伊勢神宮参拝は「クソダサい」と断じられるのか。その理由は、単なる趣味の問題ではなく、政治家としての資質に関わる以下の3つの欠陥に集約されます。

  • マーケティングの完全な失敗 そもそも、野田氏と立憲民主党を支持している「顧客」は誰なのか。彼らは、自民党的な政治や「日の丸を振るような行為」を嫌悪しているからこそ、立憲に一票を投じているのです。その支持層を完全に無視し、保守層やネット右翼に媚びを売るかのようなパフォーマンスは、誰の心にも響きません。内閣総理大臣候補の参拝アピールに対するリツイート数がわずか300程度という事実が、この試みが完全に「滑った」ことを無慈悲に証明しています。これは、自身の顧客が誰なのかを全く理解していない、致命的なマーケティングの失敗です。
  • 「キャラ違い」という自己認識の欠如 野田氏に有権者が本来求めている役割とは何か。それは、伊勢神宮で厳かな姿を見せることでは断じてありません。予算委員会で相手を徹底的に追い詰め、理路整然と論破する**「青コーナーのファイター」**としての姿です。この参拝アピールは「菅野が東京ガールズコレクションに出ようとするくらい無駄」な行為であり、「西松屋や赤ちゃん本舗のモデルであるべき人間が、ドルチェ&ガッバーナのモデルになろうとするようなもの」なのです。自分の最大の強みを捨て、全く似合わない権威の衣装をまとおうとすること。それは、政治家としての「本物感」を著しく損なう、愚かな自己誤認に他なりません。
  • プロ意識の欠如を示す細部の甘さ 百歩譲って保守層にアピールしたいのであれば、その作法は完璧でなければなりません。しかし、公開された写真に写る彼の「柏手」は、手が綺麗に揃っていない。アピールしたい層に対して最低限守るべき規律すら徹底できない「詰め」の甘さは、プロ意識の欠如を露呈しています。

しかし、ここからが野田佳彦という政治家の悲劇の核心です。これほどまでに戦略的センスが欠如している彼が、こと**「スーツの着こなし(サイズ感)」だけは完璧**なのです。多くの野党議員がサイズの合わないダボダボの服で平然としている中、彼だけはプロレスラー的な外見的規律を身につけている。この倒錯したアイロニーこそが、彼の悲劇性を際立たせます。彼はプロの「ハードウェア」を持ちながら、ド素人の「ソフトウェア」を動かしているのです。

この矛盾を総括するならば、**「一流の格闘家が、その素晴らしい肉体を隠すような、似合わないアイドルの衣装でステージに現れ、古くからのファンをドン引きさせた」**という、実に情けない状況です。最高の武器を持ちながら、その使い方を全く理解していない。この自滅的な戦略ミスがいかに深刻であるか。この問題は、高市早苗氏の事例を見ることで、さらに深く理解できるでしょう。

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3. 高市早苗の痛々しさ――死者の権威に寄生する政治

次に、高市早苗氏の様々なアピール行動を分析します。彼女の振る舞いは、単なるパフォーマンスの失敗というレベルを遥かに超え、彼女自身の**「政治的孤立」「実力不足」「過去の権威への寄生」**という、政治家としての致命的な弱さを白日の下に晒してしまっています。

彼女が抱える資質の欠落は、以下に挙げる4つの痛々しい兆候から明確に読み取ることができます。

  • 権威への寄生と自立性の欠如 伊勢神宮参拝の際に、安倍晋三元首相の位牌を持参したとされる行為。これは作法の問題以前に、自らの政治力で勝負できず、**「死者の威光」に頼らざるを得ないという、自立したリーダーシップの欠如を物語っています。その光景があまりに「奇々(不気味)」であったため、彼女に近いはずの産経新聞ですら、その写真の扱いに困惑し、その「痛々しさ」**を隠そうと配慮したほどです。
  • 「仲が良いアピール」が示す決裂の証明 政治の世界には逆説的な法則があります。もし彼女が「安倍昭恵さんと私は仲が良いんです」と声高にアピールし始めたら、それは関係が完全に終わっていることの証明です。本当に強固な関係は、外部にアピールする必要などない。必死の弁明は、関係性の破綻を自ら公言しているに等しいのです。
  • 「スタッフ自慢」に見る人材の枯渇 そもそも安倍氏自身が生前、周囲に**「あいつはアホやから」と高市氏の能力を低く評価していたことは、旧安倍派のスタッフなら誰もが知る事実です。だからこそ、有能な人材は彼女の周りから離れていく。その結果、彼女は自身の求心力低下への焦りから、「スタッフが優秀で」といったアピールに走らざるを得なくなる。これは典型的な「田舎のダメなおっさん」**のムーブであり、自分の手柄として語れる実績がないことの裏返しに他なりません。
  • 心身のタフネスの欠如 近年の彼女の身体的な変化は、その内面を如実に反映しています。急激に老け込み、その姿は「見ていてかわいそう」な状態にある。これは、現在の重圧が彼女の器に全く合っておらず、政治家に不可欠な心身のタフネスが失われつつあることの証左と言えるでしょう。

これらの分析を一つの比喩で締めくくるならば、彼女の現状は**「先代に見放された二代目が、客足の遠のいた店の軒先で、必死に先代の写真を掲げて宣伝している」**ようなものです。そして、その必死のアピールこそが、彼女がリーダーの器ではないことを、皮肉にも証明してしまっているのです。

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4. 結論:失われた「真正性」と政治家に求められる美学

ここまで、野田佳彦氏と高市早苗氏という二人の政治家を俎上に載せ、プロレスラーの美学という観点から彼らの資質を論じてきました。二人の事例から浮かび上がってきたのは、現代の政治家に決定的に欠落している資質、すなわち**「真正性(オーセンティシティ)」の問題です。真正性とは、「自分自身の強みと役割を深く理解し、借り物ではない自分の言葉とスタイルで勝負する姿勢」**に他なりません。

現代政治が抱えるこの根本的な問題を、最後に二つの要点に整理して本稿の結論とします。

  • 「田舎のダメなおっさん」的メンタリティからの脱却 実力もないのに過去の権威を笠に着る(高市氏)。自らの支持層を無視して、流行りの仕草を安易に真似る(野田氏)。あるいは、排外主義的な主張でしか自らの存在価値を示せない。これらすべてに共通するのは、自らの内実のなさを糊塗しようとする「偽物」のメンタリティであり、先ほど述べた「田舎のダメなおっさん」の精神性です。このような前近代的で卑小な価値観からの脱却こそが、今、最も急がれるべき課題です。
  • 「清潔感」という名の美学の再確認 多くの野党議員に見られる「サイズの合わない服」の問題に、もう一度立ち返らねばなりません。これは単なるファッションの問題ではない。自身のプレゼンスに対する美意識と規律が、根本から欠如していることの象徴です。プロレスラーがその肉体と立ち居振る舞いの細部にまで神経を行き届かせるように、人前に立つプロとしての美学と規律こそが、政治家に求められる全ての基礎となるべき資質なのです。

政治家に今最も求められているのは、借り物の権威や付け焼き刃のパフォーマンスではありません。自分自身の土俵で戦う覚悟と、それを支える揺るぎない美学と規律。それ以外に、国民の信頼を取り戻す道はないのです。

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