【衝撃】富裕層の夕食はポテトチップス。食卓の闇と親の狂気の真相 | 菅野完 朝刊チェック 文字起こし
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フィギュアスケートに見る「大人の建前」と、歪んだ潔癖さについて

2/17(火)朝刊チェック:思考がまとまらないので今日は雑談のみ

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記事の要約と図解

【結論】 「丁寧な暮らし」や「清廉潔白なイメージ」の裏側には、必ず人間の歪(ひずみ)や欠落が潜んでいる。裕福な家庭の貧しい食卓、過干渉な親への反発、そしてスポーツ選手を過剰に聖人化するメディアの欺瞞。これらを通して見えてくるのは、人間とは本来、もっと泥臭く、不完全で、身体的な存在であるという事実だ。

【ポイント3選】

  1. 富裕層の「貧困」: ベンツに乗る資産家家庭の夕食がポテトチップスだったという事実は、経済的豊かさが必ずしも幸福な食卓を約束しないことを証明している。
  2. 管理教育の限界: 「決めたもの以外食べさせたくない」と学校に泣きつく母親の愛情は、子供をインスタント食品や隠れ食いへと走らせる逆説的な結果を生む。
  3. メディアの潔癖症: フィギュアスケートのペアを過剰に「爽やか」「健全」に描こうとするメディアの姿勢は、大人の身体性を排除しようとする現代社会の病理そのものである。

■ 【徹底解説】「食は人生の基本」の嘘と真実――金持ちの家のポテトチップスと、メディアが隠す人間の匂い

今日は少し、思考のピントが合わない話をしようと思う。

体調不良が続き、熱は引いたものの、頭の中にはまだ重たい霧がかかっている。コーヒーを淹れようと立ち上がり、2杯目を注いでいる最中に「あれ、俺はコーヒーが飲みたいわけじゃないのに何をしているんだ?」と立ち尽くす。そんな、魂が半分抜けたような状態だ。

だが、こういう「思考がまとまらない日」にこそ、普段は見過ごしてしまう日常の奇妙な歪みが、妙に生々しく見えてくることがある。今日は政治や経済の小難しい話は抜きにして、私がかつて見た「食」と「親子」、そして現代社会にはびこる「奇妙な潔癖さ」について語りたい。

1. 富裕層の食卓に並ぶ「ポテトチップス」という貧困

「食は人生の基本」。
ある飲食企業のホームページに掲げられたこの言葉を見て、私は胸が締め付けられるような思いがした。なぜなら、その会社の社長は、私の高校時代の友人だからだ。

彼は、典型的な「金持ちの家の子」だった。
場所は兵庫県の宝塚。家は大きく、父親は事業家で、学校にはベンツで乗り付けてくるような家庭だ。誰がどう見ても富裕層であり、恵まれた環境にいるはずだった。

ある日、空腹に耐えかねた私は彼を誘って吉野家へ行った。牛丼を食べるためだ。
すると彼は、まるでこの世の珍味に出会ったかのような顔をして、牛丼をかき込み、感動している。「こんな美味いもの、食べたことがない」と言うのだ。

私は耳を疑った。吉野家が美味いのは事実だが、富裕層の彼が一度も食べたことがないというのは解せない。「家で何を食ってるんだ?」と聞くと、彼は淡々と答えた。

「夕食? ポテトチップスやポッキーが出てくるよ」

彼の母親の趣味は「貯金」だった。
夫は仕事で不在がち。母親は金を使うことを極端に嫌い、外食なんて以ての外。育ち盛りの息子の夕食に、スナック菓子を袋ごとドンと出す。それが彼にとっての「家庭の味」だったのだ。

資産はある。車は高級車だ。しかし、その食卓はあまりにも貧しい。
栄養価の話ではない。そこには「食」を通じたコミュニケーションも、愛情の交換も存在しなかった。

そんな彼が今、大人になり、飲食業で成功を収め、高らかに「食は人生の基本」と掲げている。
これはサクセスストーリーではない。彼はずっと、あのポテトチップスの夕食で空いた心の穴を埋めようとしているのではないか。そのスローガンを見るたびに、私は言いようのない切なさと、人間の業の深さを感じずにはいられない。

2. 「お好み焼き」で泣き崩れる母と、かき氷の反乱

もう一つ、忘れられない記憶がある。
西宮北口に住んでいた別の友人の話だ。

ある日の放課後、私たちは梅田の東通りにある古びたお好み焼き屋(「美舟」だったと思う)に入った。高校生が学校帰りに焼きそばやお好み焼きを食べる。これほど健全で、ありふれた青春の光景もないだろう。

しかし数日後、私は学校の生活指導室に呼び出された。
「お前、あいつと一緒にお好み焼き屋に行ったか?」
先生にそう問われ、「行きました」と答えると、先生は困り果てた顔で言った。

「あいつのお母さんが、学校に来て泣いてるんだよ」

理由はこうだ。
『私は、私が決めたものだけを食べさせて育てたかった。それなのに、学校の帰りに私の知らない、『ちゃんとした食事(お好み焼き)』を食べて帰るなんて!」

たかがお好み焼きである。犯罪を犯したわけでもない。
しかし、その母親にとって、子供が自分の管理下を離れ、自分の知らない食物を体に入れることは、耐え難い「汚染」だったのだ。

この過剰なコントロールが何を生んだか。
その後、友人は私に謝りつつも、こう言った。「これなら怒られないだろう」と。
私たちは夏の間、毎日のように「かき氷」を食べまくった。「氷なら飯じゃないからセーフだ」という子供じみた理屈だが、そうでもしなければやってられなかったのだ。そして反動のように、隠れて串カツやうどんを貪り食うようになった。

親が子供を完璧に管理しようとすればするほど、子供は歪な形でその囲いを突破しようとする。
「あなたのため」という名目のもとに行われる管理が、いかに子供の自立心や健全な食欲を歪めているか。お好み焼き一枚で涙を流す母親の姿は、現代の教育ママにも通じる「狂気」の一端だったのかもしれない。

3. フィギュアスケートに見る「身体性の隠蔽」

こうした「過剰な潔癖さ」や「あるべき姿の押し付け」は、家庭内だけでなく、メディアの中にも蔓延している。

最近、フィギュアスケートのペア(通称「りくりゅう」)が話題だが、私は彼らを取り巻くメディアの空気がどうしても好きになれない。
アナウンサーやコメンテーターたちは、彼らをまるで「仲の良い兄妹」や「爽やかな幼馴染」のように扱おうとする。「恋愛感情はない」という前提を、必死に守ろうとしているように見えるのだ。

考えてみてほしい。
20代、30代の男女が、あれだけ激しく体を密着させ、投げ合い、抱き止め、汗を流して滑っているのだ。身体的な接触(コンタクト)がないわけがない。「ギシギシ」とした肉体のぶつかり合いがあるはずなのだ。

それなのに、メディアはそれを「無菌状態」の物語に仕立て上げようとする。
男女が手を取り合っているのに、そこに性的なニュアンスや、人間としての生々しい感情が存在しないかのように振る舞う。その「見て見ぬふり」こそが、私には気持ち悪くて仕方がない。

人間はもっと泥臭い生き物だ。
例えば、三浦璃来 選手を見てほしい。彼女の顔立ちは、神戸のトアロードあたりの路面店で、高いマフラーを巻いて買い物をしている「神戸のおばちゃん」そのものだ(これは最大の賛辞である)。
あの独特の「土地の顔」や、生活感のある人間臭さ。それこそが魅力なのだ。

アスリートを聖人君子やアニメのキャラクターのように扱い、彼らの持つ「人間としての匂い」を消臭しようとする風潮。それは、ポテトチップスしか与えなかった母親や、お好み焼きで泣いた母親の持つ「現実を自分の綺麗な枠にはめ込みたい」というエゴと、根底で繋がっている気がしてならない。

まとめ:不完全さを愛せ

思考がまとまらないままに書き連ねてきたが、結局私が言いたいのはこういうことだ。

世界は、教科書通りには動いていない。
金持ちの家の食卓が冷え切っていることもあれば、薄汚いお好み焼き屋で食べる焼きそばが、涙が出るほど美味いこともある。
男女が体を寄せ合えば、そこには綺麗な友情以上の、複雑で濃厚な何かが生まれるのが自然だ。

私たちは、そういった「割り切れなさ」や「不完全さ」をもっと許容してもいいのではないか。
綺麗なスローガンや、無菌室のようなメディアの報道に騙されてはいけない。人間の本質は、もっと混沌としていて、だからこそ面白いのだ。

今日はもう、これ以上難しいことを考えるのはやめておこう。
とりあえず私は、誰に気兼ねすることもなく、自分の好きなタイミングで、熱いお茶でもすすることにする。それが「人生の基本」かどうかは知らないが、少なくとも今の私には、それが必要なのだから。

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