序論:なぜ今、三島由紀夫の「死」を問うのか
2025/11/25(火)朝刊チェック:自ら死にゆくオールドメディア
1970年11月25日、作家・三島由紀夫が市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地で繰り広げた割腹自殺は、半世紀以上が経過した今なお、我々の精神に深く突き刺さる事件であり続けている。この行為は、一般に政治的クーデターの失敗として、あるいは歪んだ愛国心の帰結として語られてきた。しかし、もしその本質が、国家やイデオロギーといった公的な「意味」とは無縁の、ただひたすらに「最高の射精を追い求めた結果」であったとしたらどうだろうか。
菅野氏は、この挑発的な解釈を起点とする。三島の死を、世俗的な意味付けから解放された純粋な美学的追求の極致として再定義すること。そして、その純粋さが鏡のように映し出す、当時の、そして現代のオールドメディアが露呈する誠実さを欠いた「俗物性」とを鋭く対比させること。そこから浮かび上がるのは、両者の間に横たわる、埋めがたい根源的な「断絶」である。なぜ今、三島を問うのか。それは、彼の極限的な死が、意味を失い自ら死にゆく現代社会の空虚さを、かつてなく鮮烈に暴き出すからに他ならない。
1. 政治的意味の剥奪――「最高の射精」としての死の再定義
三島由紀夫の死をめぐる言説は、長らく政治的な解釈の霧に覆われてきた。しかし、その行為の本質を理解するためには、まずこの分厚い霧を意図的に払い、剥き出しの個人的美学の極致として捉え直す作業が不可欠である。彼の死は、社会へのメッセージではなく、彼自身の肉体と精神に向けられた、究極の自己完結的パフォーマンスだったのだ。
政治的解釈の完全否定
菅野氏曰く、まず結論から言えば、三島の市ヶ谷での割腹自殺に**政治的な意味を見い出そうとする者は「全員俗物」**である。その種の解釈は、根本的に「間違っている」と言わざるを得ない[1]。国家のため、思想のためといった公的な物語を彼の死に被せる行為は、その本質を矮小化し、理解から最も遠ざける態度に他ならない。
「プレイ」としての本質
では、その本質とは何か。それは、あくまで個人的な**「プレイ」**であった。三島にとってあの日の出来事は、政治的理想の実現に向けた悲壮な行動などではなく、彼自身の美学を完結させるための、生涯で最後の、そして最大の舞台だったのである。
美学的クライマックスの分析
その「プレイ」が目指した究極の目的こそ、「最高の射精を追い求めた結果」「もっと先があると思った」「何の意味もない」い。それは他者や社会に向けられたメッセージではなく、純粋に個人的な達成であったからだ。
「意味のなさ」の価値
しかし、この「何の意味もない」という一点こそが、逆に三島の行為の純粋性を際立たせ、我々をして「三島はすごい」と言わしめる根源なのである。世俗的な動機や社会的な意味付けをすべて排除し、ただひたすらに究極の個人体験を追求する。その徹底した姿勢そのものが、常人には到達し得ない芸術的境地を示している。後付けの「意味」ではなく、行為そのものの絶対的な充足感こそが、彼の唯一の目的だったのだ。
この死を美学の頂点として捉え直すとき、初めてその行為を取り巻く世界の、そして我々自身の「俗物性」が、白日の下に晒されることになる。
2. 「臭い」を捉えた天才――和田誠の似顔絵が持つ批評的力
言葉による分析が時にその対象の本質から遠ざかることがある一方で、一枚の絵がすべてを語り尽くすことがある。三島由紀夫の死をめぐる無数の言説の中で、イラストレーター・和田誠が描いた一枚の絵は、他のいかなる長大な評論をも凌駕する、不滅の批評的輝きを放っている。
最高の風刺画としての位置づけ

三島の死後、週刊サンケイの増刊号に掲載された和田誠による三島の肖像は、まさに**「見事に表現しきった天才」の仕事であり、「最高の風刺」**として絶賛されるべき作品である。没後55年を経て夥しい数の三島論が上梓されたが、そのいずれもが、このたった一枚の絵が持つ批評的深度に到達できていない。
和田が描いたのは単なる似顔絵ではなく、三島の内なる純粋な美学と、世間に消費されることで纏わりついた公的なペルソナの「俗物的な臭さ」との二重性を喝破する、天才的な批評となっているのだ。
「エキス」の抽出
和田の絵は、なぜそれほどまでに本質を捉えているのか。それは、多くの評者が試みるような三島の内面心理の図解ではない。むしろ、彼が描き出したのは、三島の純粋な行為が世間に投じられた瞬間、俗物たちの解釈によって否応なく纏わされてしまった**「国臭さ」、あるいは「俗物的な臭さ」**という「エキス」そのものであった。和田の絵は「ものすごく三島なの」であり、「三島のエキスを抜き出したような絵」と評される。それは、三島自身の純粋な美学的達成とは裏腹に、その行為が社会によって消費される過程で放つに至った、陳腐で通俗的な「臭い」を見事に抽出しているからだ。
メディアの狂騒との対比
三島の死の直後、メディアは狂騒状態に陥った。『週刊読売』が「三島由紀夫は女だった」といったセンセーショナルな見出しを掲げたように、

各誌は彼の死をそれぞれの俗悪な切り口で消費しようと躍起になっていた。こうした過熱した報道の渦中にあって、和田誠の似顔絵は驚くほど冷静であった。彼は、メディアが作り出す騒音の中から、三島の行為が社会に回収される際に帯びてしまう本質的な「臭さ」だけを、純粋な芸術表現として結晶化させたのである。








和田誠の「一枚の絵」は、一個の天才が命を賭して到達した極限の美学と、それを矮小化し、陳腐な政治的文脈に回収しようとする世間との間に横たわる、埋めがたい「断絶」を視覚化した不滅の批評なのだ。そして問われるべきは、この「俗物性」が現代においていかに変容し、より深刻な形で私たちの社会に巣食っているか、という点である。
3. 「誠」の不在――自ら死にゆく現代オールドメディアの俗物性
三島由紀夫の死を取り巻いていた「俗物性」の構造は、時代を経て、より根深く、より構造的な問題として現代社会に顕在化している。その最も象徴的な舞台が、権力監視という本来の役割を放棄し、自ら死へと向かう現代のオールドメディアの姿である。彼らが露呈するのは、単なる俗物性を超えた、本質的な「誠」の不在だ。
現代メディアの「自殺行為」の告発
2025/11/23高市総理大臣がG20の重要なセッションに1時間も遅刻したにもかかわらず、日本の大手新聞社は揃ってその理由を報じなかった。これは単なる報道の怠慢ではない。権力の中枢で何が起きているのかを国民に伝えるという、ジャーナリズムの根幹を放棄した**「自殺行為」**に他ならない。彼らは「書けない事情」を抱えているのかもしれないが、その事情を語ることさえしない。この沈黙は、三島の時代に見られたセンセーショナリズムとは質の異なる、より深刻な機能不全を示している。
「誠」の欠如の指摘
メディアが権力中枢の真実から目を背けることと、三島をめぐる議論に見られる表面的な言説とは、本質的に同根である。例えば、愛国心や右翼的イデオロギーを掲げながら、三島や昭和維新に影響を与えた思想の基礎である**「青年日本の歌」(昭和維新の歌)さえ知らない者がいる。これらは単なる類似現象ではない。両者の根底に横たわるのは、基礎となる真実と向き合うことを拒絶する、同じ知性の怯懦であり、真摯な探求、すなわち「誠(まこと)」**の根本的な放棄なのである。
まさに、こうした空虚な物語への依存に対する解毒剤として、本物の知性が指し示す道がある。昭和維新の文脈を真に理解するためには、橋川文三の著作にあたるべきだという指摘は、その象徴である。

三島の追求との対比
ここで、三島由紀夫の行為との対比は鮮烈な意味を持つ。三島が、社会的な評価や他者の理解を度外視し、命を賭してまで「最高の射精」という純粋な個人体験を追求したのに対し、現代メディアは真実の追求という自らの存在意義そのものを放棄している。彼らは安易で表面的な報道に終始し、権力と馴れ合うことでその命脈を保とうとする。三島の行為の過激さが、現代メディアの空虚さと「誠」の不在を、一層無慈悲に際立たせるのだ。
三島の時代、俗物たちは彼の行為に誤った意味を付け加えようとした。しかし現代の俗物たちは、そもそも意味や真実を追求すること自体を放棄している。それは、より深刻な「誠」の不在を伴う、静かなる魂の死と言えるだろう。
結論:美学の果ての死と、意味を失った生の断絶
本稿は、三島由紀夫の死を、政治的文脈から解放し、「最高の射精」を求めた究極の美学的「プレイ」として再定義することから出発した。そして、その純粋な行為が、和田誠の天才的な風刺画によって暴き出された世間の「俗物性」とどう対峙したかを見た。さらに、その「俗物性」の構造が、現代オールドメディアが露呈する深刻な「誠」の欠如にまで通底していることを明らかにしてきた。
ここに浮かび上がるのは、一つの根源的な「断絶」である。 三島が命懸けで到達したのは、世俗的な価値を超越した**「意味のある無意味」であった。それは、一個の人間が到達しうる極限の自己表現であり、美学的な達成であった。対して、現代メディアが日々繰り返しているのは、職務を放棄し、真実から目を背ける「意味のない無意味」**な報道である。前者が極限の生の実感に満ちているのに対し、後者はただ緩やかに死んでいくだけの生のあり方を示している。
最高の射精を求めた美学の果ての死と、意味も誠実さも失ったまま続く生。この両者の間にある断絶は、もはや埋めがたいほどに深い。三島由紀夫という極端な存在は、深さを失い、本質から目を背けることでしか成り立たなくなった現代社会に対し、今なお鋭い問いを投げかけ続けている。――お前たちは、一体何のために生き、何のために死ぬのか、と。
人気ブログランキング



コメント