2026/1/16(金)朝刊チェック:立憲民主党の人も公明党の人も大きな勘違いしてはいませんか?
3行要約ボックス
• この記事の結論: 兵庫県知事問題の本質は、ネットで増幅された「異常な少数派」の声に対し、健常な多数派が「そっと閉じ」を決め込むことで社会の底が抜けてしまう構造的欠陥にある。
• 動画の重要ポイント3選:
◦ ネットのエコーチェンバー現象により、本来は誰にも相手にされなかった異常者が集まり、巨大な影響力を持っているように錯覚させる空間が生まれた。
◦ 日本人特有の「権力者=正しい」というバイアスと認知的不協和により、まともな層ほど政治から目を背け(そっと閉じ)、結果として異常者がフィールドを支配する。
◦ 横浜市ではパワハラ告発が機能する一方、兵庫県庁では職員が知事会見の「台本」を作成するなど、ガバナンスが完全に崩壊している。
• 読者への問いかけ: なぜ私たちは「おかしい」と感じる政治状況を見ても、声を上げずに画面を閉じてしまうのでしょうか?その無関心の先に待っている「社会の崩壊」について考えます。


【徹底解説】動画の全貌と詳細な事実
1. 兵庫県知事問題と社会の「底が抜ける」現象
1. 動画での事実(Fact)
• 菅野氏は、兵庫県知事(斎藤元彦氏)の問題に固執する理由として、「異常者がネットを通じて声を大きくし、あたかも価値があるかのように人を惹きつけてしまうメカニズム」への危機感を挙げた。
• 斎藤知事の支持者は「N国(NHKから国民を守る党)」的な集合体の一部であり、「異常者」という大きな円の中にN国や斎藤支持者が含まれると、ベン図を用いて説明した。
• ネット以前の昭和の時代であれば、周囲から見向きもされなかったような人物が、ネットという装置によって可視化され、エコーチェンバー現象を起こしていると指摘した。
• 2024年11月の知事選挙で見られた光景は、異常者同士がお互いを称賛しあう「異常祭り」であり、そこに一部の健常者が騙されて巻き込まれた結果であるとした。
2. 独自の分析(Analysis)
• この現象は単なる一地方の政治問題にとどまらず、民主主義のプロセスにおける構造的な脆弱性を示唆している。ネット空間では、極端な言説や特異なキャラクター(菅野氏の言葉を借りれば「異常者」)がアルゴリズムによって増幅されやすい。
• 「エコーチェンバー」によって増幅された声は、実際には圧倒的マイノリティ(菅野氏の試算では兵庫県民500万人のうち20万人以下)であるにもかかわらず、高性能なスピーカーによってマジョリティの意見のように錯覚させられている。
• この「いびつな空間」を放置することは、社会の共通基盤(底)が抜けてしまうことを意味し、論理や倫理よりも「声の大きさ」や「狂気」が支配する前近代的な状態への退行を招く恐れがある。
◦ 健常者の「そっと閉じ」と認知的不協和
1. 動画での事実(Fact)
• 兵庫県の健常なマジョリティ層の多くは、県政に興味を失っている。その背景には「権力者(知事)=正しい」と無意識に思い込む、日本人特有の「弱者メンタリティ」や「通俗道徳」があるとした。
• 日本人は「鬼畜米英」と叫んだ2週間後に「マッカーサー」を称えるように、基本的に「強い人間は正しい」と考えるバイアス(デフォルト設定)を持っている。
• しかし、実際に斎藤知事の周囲を見ると、菅野氏の表現によれば「色気違い、貧乏人、知恵遅れ」といった人々(異常者)しかいない現実に直面する。
• 「知事は正しいはずだ」というバイアスと、「支持者が異常である」という現実の間で「認知的不協和」が発生する。その不快感を解消するため、まともな人々は「見なかったこと」にして画面を閉じる(そっと閉じ)、つまり政治的無関心を決め込む行動に出ると分析した。
2. 独自の分析(Analysis)
• ここで指摘されているのは、政治的無関心の正体が「単なる怠慢」ではなく、「自己防衛的な心理反応」であるという点だ。
• 正常な判断力を持つ人ほど、カオス化した政治状況に関わるコストと精神的ストレスを忌避する。その結果、監視の目が届かなくなり、異常な状態が放置・温存されるという悪循環(逆淘汰)が発生している。
• 「強い者は正しい」という権威主義的バイアスは、批判的検証を阻害する最大の要因であり、これがネット上の熱狂と結びつくことで、ポピュリズムが容易に成立する土壌となっている。
◦ ガバナンスの比較:兵庫県と横浜市
1. 動画での事実(Fact)
• 菅野氏は、兵庫県のガバナンス不全を強調するために、横浜市での事例(市幹部が実名で市長のパワハラを告発する会見を開いた件)と比較した。
• 横浜市では、内部の職員が市長の問題行動を告発できるガバナンスが効いているため、組織として自浄作用が働いていると評価した。
• 一方、兵庫県庁では、知事の記者会見中に「県政改革課」の職員らがヘッドホンをつけて記者とのやり取りを監視し、知事のための答弁台本(カンペ)を作成している事実を、菅野氏自身が現地で確認したと述べた。
• 知事の政治的発言(政務)の台本を、公務員である県職員が作成・補佐している現状を、「オウム真理教が地下鉄でサリンを撒くこと」を法律が想定していなかったのと同様に、想定外の異常事態であり、ガバナンスが完全に崩壊していると断じた。
2. 独自の分析(Analysis)
• この対比は、組織の健全性を測るリトマス試験紙となる。横浜市は「組織の論理」や「法的な正当性」が首長の権力よりも優先される健全な状態にある。
• 対して兵庫県は、公務員の中立性が侵され、知事個人の政治的延命のために組織リソースが私物化されている。これは単なる「パワハラ問題」を超えた、行政機構としての機能不全(システムエラー)である。
• 菅野氏が「偏差値の低い高校ほど校則が分厚い」と例えたように、明文化されたルール以前の「当たり前の常識・倫理観」が共有されていない組織では、どんなに法律を作っても異常者の暴走を止めることはできないという限界を示している。
【深層分析】菅野完の視点:兵庫県知事問題と日本社会の「底が抜ける」正体
私が菅野完でございます。1/16朝刊チェックの時間がやってまいりました。頑張っていかなあかんなぁ~言うてるところなんですけど。
最初に、僕自身の「インテグリティ(誠実さと一貫性)」について話をさせてください。このレポートは、そこらへんの情報の書き写しでもなければ、ましてや田舎の弱者が垂れ流すような自己憐憫の物語でもない。私がこれまで積み上げてきた言論に嘘をつかず、目の前で起きている「社会の底が抜ける」という現象に対して、誠実に向き合い、その正体を抉り出すためのものです。
今、兵庫県で起きている事態を直視するのは、正直言って「しんどい」作業でしょう。しかし、知性ある読者ならば、この異常事態の解剖に付き合う覚悟を持っていただきたい。これは、日本社会という装置が末期症状を起こしている現場の記録なのだから。
1. 「異常者」の可視化と増幅:兵庫県知事支持者の解剖
兵庫県知事・斎藤元彦氏を熱狂的に支持する層。彼らを単に「ネットの支持者」などと呼んで済ませてはいけない。その本質を論理的に理解するには、ベン図をイメージすれば一目瞭然です。

まず、「異常者」という巨大な円がある。昭和の時代なら、近所の誰からも相手にされず、社会の片隅で等閑視されていたであろう連中だ。その巨大な円の中に、「N国党」を支持するような小集団があり、斎藤氏の支持層もまた、その「異常者」の円の内部に完全に取り込まれている。集合論の話であって、何も難しいことはない。
ネット空間という装置は、かつては可視化されなかった「異常な声」に、あたかも価値があるかのような「擬似的な価値」を纏わせる増幅装置として機能した。彼らはエコーチェンバーの中で、互いの唾を啜り合い、いびつな快感に浸っている。あえて差別的な言葉を使って表現すれば、そこにいるのは「知恵遅れと貧乏人と色き違い」ばかりではないか。
問題は、この圧倒的なマイノリティが、デジタル空間の拡声器を使って「お祭り」を演出し、それに釣られた「健常者」が、「これは楽しいお祭りなのかも」と引き寄せられてしまったことにある。この異常な熱狂こそが、社会の底を抜き去る第一歩となったのだ。
2. 健常者の「そっと閉じ」と権力バイアスという病理
なぜ、圧倒的多数派であるはずの「健常者」は、この異常な光景を前に無力なのか。そこには日本社会に根深く沈殿している「権力バイアス」という病理がある。
日本人の多くは、「強い者は正しい」という、ある種の奴隷根性に毒されている。敗戦からわずか二週間で「鬼畜米英」から「マッカーサー大明神」へと手のひらを返した、あの田舎者特有のメンタリティだ。彼らにとって、知事という座にある人間は、それだけで「正しい存在」であるというバイアスがかかる。
しかし、その「正しいはずの知事」の周りに集まっているのは、先に述べたような異様な支持層だ。この矛盾に直面したとき、日本の健常者はどうするか。 黒澤明の『七人の侍』で、落武者狩りを指摘された際の左卜全(ひだりぼくぜん)のような、あの虚脱した、脳面(のうめん)のような無反応な顔になる。そして、思考を完全に停止させ、ネット用語で言うところの「そっと閉じ」を選択するのだ。
「強い者は正しいはずだ。でも、目の前には色き違いと貧乏人と知恵遅れしかいない。……よし、見なかったことにしよう」
この思考の放棄こそが、社会の自浄作用を停止させている真犯人なのだ。違うか? そうやろ?
3. 行政の「末期的異常」と「健全な自浄」:兵庫と横浜の比較
この内面的な麻痺が、行政組織という具体的なガバナンスの現場において、どのような末期的症状をもたらしているか。兵庫県庁の現状は、もはや「行政」の定義を逸脱している。
私が実際に県庁の現場で見たのは、戦慄すべき光景だった。兵庫県庁の「県政改革課」などの職員が、執務室でヘッドホンを装着し、7~8人がかりで知事会見の台本作成に総出で当たっているのだ。 知事の会見には、行政事務としての「公務」と、政治的判断としての「政務」がある。政務に関する発言の責任は知事個人や施設秘書が負うべきものであり、公務員がその台本をルーチンワークとして書かされている現状は、法的手続き論の不在を意味する。行政そのものが知事という個人の「私的な装置」に成り下がっているのだ。公務員としての矜持など、もはや微塵も残っていない。
対照的なのが、横浜市のケースだ。横浜市では、市長のパワハラや不適切な言動に対し、幹部職員が実名・顔出しで記者会見を開き、公然と告発した。これは横浜市のガバナンスがまだ「まとも」に機能している証左だ。職員が自分たちの矜持を守り、組織を正すための防波堤として機能している。
兵庫県のように、職員がヘッドホンをして知事の顔色を伺い、台本作りに没頭する組織は、もはや行政ではない。これこそが、社会の「底が抜けた」状態の具体的な姿なのだ。
4. 結論:地獄を見てからが勝負である
今の日本社会、そして兵庫の惨状を見ていると、私は冷徹に断言せざるを得ない。この国は、一度徹底的に「底」を突き、本当の地獄を見なアカン。
円安が280円時代に突入し、街にホームレスが溢れ、これまで「そっと閉じ」を決め込んできた「田舎のおっさん」たちが、自分たちの生活が物理的に破壊されたことを悟るまで、本質的な変化は訪れない。今起きているこの滑稽な騒乱は、日本人が目を覚ますための、避けて通れない残酷な「通過儀礼」なのだ。
「一度地獄を見なアカン」
これは絶望ではない。逆説的な希望だ。地獄の底で、自分たちが何を失い、何を放置してきたのかを骨の髄まで理解したとき、初めて本当の「再建」が始まる。社会の底が抜けたのなら、また一から、自分たちの手で底を張り直せばいい。
そのためには、今起きているこの異常を、異常であると断じ続ける「インテグリティ」を死守しなければならない。たとえ最後の一人になっても、私はそう言い続ける。
頑張っていかなあかんなぁ。
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