2025/12/27核保有発言に関する「日本奪還チャンネル」 .@nihondakkan とやらの憲法議論に反論する。
「個人的には」――。一見すれば、個人の見解を謙虚に表明する、ありふれた枕詞に過ぎない。しかし、この言葉が現代社会で異様なまでに濫用され、本来の意味を失った時、それは単なる口癖ではなく、社会全体を蝕む「病」と化す。この言葉の病が、コミュニケーション不全という些細な症状から、国家統治の規律を破壊する末期症状へとどう進行するのか、その病巣を白日の下に晒してやろう。
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1. 現代の奇病:「個人的には」という防御バリア
菅野完氏は、現代の日本語、特に「個人的には」という言葉の濫用に警鐘を鳴らす。彼に言わせれば、これは単なる言葉遣いの乱れではない。他者からの批判を恐れ、責任を回避しようとする現代人の臆病な心理が凝縮された、社会的な病理の兆候なのである。居酒屋の与太話から始まったこの病は、いまや国家の中枢にまで感染を広げている。
1.1. 中身なき権威付け:スニーカーと柚子胡椒の滑稽さ
この病の最も滑稽な症例は、ごくありふれた感情や好みを、さも深遠な独自見解であるかのように装飾する場面に現れる。菅野氏が挙げる二つの具体例は、その空虚さを象徴している。
- スーツにスニーカーを合わせる男:雨の日にスーツにスニーカーを履いている理由を問われ、「個人的に革靴を汚したくなくて」と答える。靴を汚したくない?当たり前だろ、そんなことは。そこに「個人的」な哲学など1ミリでも存在するのか? これは単に、上司から「仕事なんだから汚せばいい」と正論で突っ込まれるのを恐れた、無意味な装飾に過ぎない。
- 鍋の薬味を選ぶ若者:居酒屋で豚鍋を囲み、ポン酢の薬味を選ぶ段になって、「個人的には柚子胡椒なんですよね」と宣言する。豚鍋に柚子胡椒だと?それがお前の言う「個人的」な見解か。その凡庸きわまりない感性を、さも特別なもののように語るな。誰も批判などしない些細な好みの表明に、わざわざ「個人的」という断りを入れる。菅野氏はこれを、中身のない自意識を糊塗するための「イキっている(格好をつけている)」だけの行為だと断じる。
これらの事例が示すのは、「個人的には」という言葉が、本来持つべき「個人の独自見解」という意味を完全に剥奪され、単なる空疎な自意識の表れと成り果てた姿である。
1.2. 「批判しないでください」という臆病な心理
では、なぜ人々は無意味にこの言葉を付け加えるのか。菅野氏はその心理的背景を、「そこを批判しないでください」「怒らないでください」という臆病なメッセージの発信にあると喝破する。
「個人的には」と前置きすることで、発言者は「これは私のプライベートな領域の話であり、あなたの正論や評価が及ばない安全地帯だ」という防御バリアを張ったつもりになっているのだ。たかが靴の選び方、薬味の好みといった、どうでもいい事柄でさえ、他者との僅かな摩擦を恐れる。評価やツッコミを未然に封じ込め、安全な殻に閉じこもろうとする現代人のコミュニケーション不全が、この言葉には凝縮されている。
1.3. 同意の強要:「私って〇〇な人じゃないですか」という別種の病
この「個人的には」という病から派生した、もう一つの言語病理がある。「私って朝弱い人じゃないですか」「俺って車好きなタイプじゃん」といった構文だ。菅野氏はこれを、相手に同意を強要する**「ハニトラ(ハニートラップ)的構文」**と呼び、自意識過剰な世代特有の悪癖だと批判する。初対面の相手にすら、さも共有された事実であるかのように同意を求めるこの話し方は、「知らんがな」という他者の存在を無視した、甘えの極致と言えるだろう。
こうした日常に蔓延る「甘えた言語感覚」が、私的な会話に留まっていれば、まだ笑い話で済んだかもしれない。しかし問題は、この居酒屋のノリが、国家の公的な領域にまで何の疑いもなく持ち込まれていることにある。
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2. 感染拡大:居酒屋のノリが官邸を蝕む
前章で示した日常会話レベルでの「言葉の甘え」は、ついに国家統治の中枢である官邸をも蝕み始めた。「個人的見解」という言葉を魔法の免罪符だと勘違いした大人たちが、公人としての責任感を麻痺させ、国家の規律を内側から崩壊させている。その深刻な実態は、公私の区別という社会の基本原則の崩壊に他ならない。
2.1. 公私の境界線:記者の存在が「私人」を消滅させる
そもそも公務員にとって、「公人」と「私人」を分ける境界線はどこにあるのか。菅野氏は、主観や気分ではなく、唯一かつ客観的な基準を提示する。それは**「記者が目の前にいるか否か」**だ。
風呂に入っている時、トイレにいる時、家族と食事をしている時。そこには通常、記者はいない。その時間は「私人」だ。しかし、ひとたび記者が目の前に現れた瞬間、その空間は「公務執行中」となり、「私人」という人格は完全に消滅する。本人が「今はオフレコだ」「休憩中だ」といくら思おうが関係ない。記者の存在が、公私を切り替える絶対的なスイッチなのである。
2.2. 許されざる公私混同:警察官と会社員の比喩
この厳格なルールを理解できない者たちのために、菅野氏は二つの鮮烈な比喩を用いる。
- 警察官の比喩:制服を着た警察官が、万引き犯を見て「こいつムカつく顔してるから、個人的には殺すわ」と言ったとしよう。この発言が「個人的な意見です」という言い訳で許されるだろうか。断じて否だ。制服を着ている限り、彼は法を執行する「公人」であり、「法を無視する個人」である瞬間など一秒たりとも許されない。
- 会社員の比喩:関西テレビの記者だと名乗り、会社の看板を背負って取材に来た人間が、相手に暴言を吐いた後で「これは個人的見解です」と言い逃れができるか。できるわけがない。相手は「カンテレの社員」として話を聞いているのであり、そこに「個人」が入り込む余地はない。
官邸官僚が記者の前で「個人的には」と口走ることは、これらと同じレベルの職務放棄であり、社会人としての倫理観からも逸脱した、許されざる「甘え」なのである。
2.3. 唯一の例外:「矢沢永吉」という特権
菅野氏によれば、この公私の使い分けが社会的に許容される人類史上唯一の例外が存在する。それは、矢沢永吉だ。
かつて不動産取引の電話で「俺はいいけどYAZAWAがなんて言うかな」と語ったという逸話。生身の「俺」と、パブリックイメージとしての「YAZAWA」。この二つの人格を並立させることが許されるのは、彼が唯一無二のスター、”The Only One”だからだ。自分が矢沢永吉と同格であると勘違いし、「官邸としてはダメだが個人的には…」などと口走る官僚は、もはや滑稽ですらない。国家の安全を預かる資格のない、ただの勘違い野郎だ。
このような公私の区別すらつかない人物が、国家の安全保障という最も厳格な規律が求められる分野を担当している。この事実は、単なる失言問題ではなく、実務能力そのものが欠如していることの動かぬ証拠なのである。
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3. 無能の証明:安全保障を担う資格の欠如
官邸官僚による「個人的見解」の発露は、単なる公私混同という倫理問題に留まらない。これは、国家の機密保持と情報戦を担うべき安全保障担当者としての実務能力が絶望的に欠如していることの証明である。核兵器の是非を論じる以前に、その人物に国家の安全を託す資格があるのかという、より根源的な問題がここにある。
3.1. 「オフレコ破り」という責任転嫁の欺瞞
「あれはオフレコ発言だった。報じたメディアが悪い」――。こうした擁護論がいかに的外れであるかを、菅野氏は過去の事例をもって喝破する。かつて民主党政権の松本龍復興大臣は、記者団に対し「書いたらその社は終わりだ」と恫喝しながら放言し、結局すべて報じられて失脚した。
メディアとは、「書くな」と言われれば言われるほど書きたくなる生き物だ。それを権力でねじ伏せ、情報をコントロールする「グリップ力」を持てないこと自体が、権力者としての無能の証明に他ならない。問題の本質は、情報を漏らしたメディアではなく、情報を「書かせた側」の圧倒的な無能さにあるのだ。
3.2. 保守派の自己矛盾:「スパイ防止法」と情報漏洩の擁護
この問題で最もグロテスクな光景は、普段「日本の機密を守るためにスパイ防止法を作れ」と叫んでいる層が、今回の情報漏洩を熱心に擁護している自己矛盾である。
菅野氏は鋭く問いかける。「国内の記者さえ御せない人間が、どうやって中国やロシアの高度な訓練を受けたスパイを防げるというのか?」と。日経や時事通信の記者は、中国の工作員より手強いというのか。これは噴飯もののダブルスタンダードだ。情報管理とは、法制度を整える以前の、担当者個人の脇の固さや交渉力といった**「運用能力」**の問題なのである。
3.3. 最悪のリスク:「デリヘルのドライバーの方がまだ安全」
国内記者への対応失敗は、そのまま対外的な諜報戦や外交交渉での敗北に直結する。国内の記者という、いわば「御しやすい」相手にすら情報を抜かれる脇の甘さ。そんな人物が、百戦錬磨の外交官や工作員を相手に、国益を賭けたタフな交渉ができるはずがない。「メディアコントロールもできない人間が、有事の際に内閣の一員として機能するはずがない」と菅野氏は断言する。そして、この絶望的な状況を、彼は「そんな奴が担当しているくらいなら、デリヘルのドライバーがやっている方がまだ安全だ」という最も痛烈な比喩で表現する。
この脇の甘さこそが、核兵器の有無を遥かに超える、国家にとっての最大のリスクなのである。この実務能力の欠如は、個人の資質の問題を超え、憲法が定める統治の規律そのものを破壊する行為へと繋がっていく。
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4. 統治の崩壊:問題は9条ではなく99条である
これまでの議論の核心は、政策の中身(核武装の是非)や平和主義(憲法9条)ではない。真の問題は、国家権力を行使する全ての公務員が遵守すべき、憲法上の手続き(段取り)と組織規律、すなわち**憲法99条(憲法尊重擁護義務)**が踏みにじられているという一点にある。
4.1. 論点のすり替えを見破る:「段取り」こそが本質
批判者たちは「憲法9条には核保有禁止と書いていない」と、議論を政策論へとすり替えようとする。しかし菅野氏は「議論しているのは政策の中身ではなく、正規の手続き(段取り)を踏んでいるか否かだ」と一蹴する。
彼は高市早苗氏の事例を引く。彼女が安倍晋三元首相から疎まれたのも、政策が保守的だからではなく、「段取り」を無視してスタンドプレーに走る「サークルクラッシャー」的振る舞いにあったという。組織論において、政策の内容がいかに正しくとも、「段取り」を破壊する人間は統治者として失格なのである。
4.2. 憲法が定める内閣の「立て付け」:全員一致と連帯責任
憲法が定める内閣の構造(立て付け)は、極めて厳格だ。内閣とは、「構成員全員が同じ意見である」ことを大前提とした合議体であり、国会に対して**「連帯して」**責任を負う。
このため、内閣の方針と異なる意見を内部の人間が公言する「閣内不一致」は、憲法上絶対に許されない。意見が違うのであれば、組織を去る(辞職する)しかない。かつて鳩山由紀夫内閣で、政府方針に反対した福島瑞穂大臣が罷免されたのが、この鉄の掟の証左である。
4.3. 政府答弁の正しい読み方:国是としての「非核三原則」
この掟は、岸田総理(当時)の政府答弁の正しい読み方を教える。批判者たちは、答弁の前半、「9条の法理的解釈上、核保有は直ちに違憲ではない」という部分だけを**「つまみ食い」**して自己を正当化する。
しかし、公務員を絶対的に拘束するのは、答弁の後半で確定された**「政府見解」**の方だ。「非核三原則は国是であり、政府として(核共有等は)考えない」。これが閣議決定という正規の「段取り」を経て成立した国家の方針であり、官邸の人間は、個人の思想信条がどうであれ、この見解に100%従う義務がある。
4.4. 最終結論:憲法99条(憲法尊重擁護義務)違反
以上の分析を統合すれば、結論は明白である。官邸官僚の発言は、明確な憲法99条違反だ。
確立された政府見解(国是)と、内閣の連帯責任という憲法上の「立て付け」。これらを、正規の「段取り」を経ることなく、内部の人間が「個人的には」という軽い言葉で破壊する行為。それは、国家権力を行使する公務員に課せられた最も重い義務、憲法を尊重し擁護する義務に対する、公然たる反逆に他ならない。
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結論:魔法のバリアの果てにあるもの
「個人的には」。
現代社会において、この言葉は子供の「バリア!」ごっこと同じ役割を果たしている。これを唱えさえすれば、あらゆる批判や責任が無効化される――。多くの大人が、本気でそう錯覚している。この幼稚な防御反応は、社会全体の病理だ。
しかし、この病が、鍋の薬味を選ぶ日常から、国家の安全保障を議論する官邸にまで蔓延した時、それはもはや単なる言葉の誤用やコミュニケーション不全では済まされない。それは、組織の規律を破壊し、法の支配を形骸化させ、国家の意思決定プロセスそのものを崩壊させる、致命的な**「甘え」**となる。
菅野完氏が突きつける警鐘は明確だ。言葉の崩壊は、思考の崩壊を招き、統治(ガバナンス)の崩壊へと至る。我々が今目の当たりにしているのは、その無残な最終局面だ。
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