知事の「悪口禁止条例」:税金1500万円で隠蔽される「不都合な死」とダブルスタンダードの構造 | 菅野完 朝刊チェック 文字起こし
PR

知事の「悪口禁止条例」:税金1500万円で隠蔽される「不都合な死」とダブルスタンダードの構造

2025/12/11(木)朝刊チェック:野党の皆さんとりわけ立憲民主党の右側の人たちは人生を54,868回やり直しても理解できないと思いますがあなた方に徹底的に欠けているものはこれです。

導入部:正義の仮面の下で

一見すると、この条例案は現代社会が抱える病巣の一つである「ネット上の誹謗中傷」から県民を守るという、正当で喫緊の課題に応えるものに見える。誹謗中傷対策という正義の仮面をかぶったこの政策は、多くの人々の共感を呼ぶだろう。

しかし、その提案者である知事自身の発言と行動を詳細に検証すると、その仮面の下から全く別の顔が覗く。この条例が、実は県民を守るための盾ではなく、知事個人を批判から守るための歪んだ道具なのではないかという深刻な疑念である。本稿が投げかける核心的な問いは、この条例の真の目的は何か、という点に尽きる。

菅野氏は、この「誹謗中傷対策条例」案をめぐる知事の言動を、**「ダブルスタンダード」「責任放棄」「税金の私物化」**という3つの側面から徹底的に分析し、その欺瞞に満ちた構造を白日の下に晒すことで、公権力が私物化されていく危険なプロセスを明らかにしていく。

——————————————————————————–

スポンサーリンク

1. 条例の原罪:歪められた「立法事実」という名のダブルスタンダード

法律や条例が制定されるには、その必要性を示す客観的な根拠、すなわち「立法事実」が不可欠である。しかし、この条例案における立法事実は、知事個人の主観的な感情によって著しく歪められており、その偏りが条例全体の正当性を根底から揺るがす「原罪」となっている。

知事が条例の根拠として扱う「2つの誹謗中傷事案」に対する対応には、致命的な矛盾が存在する。以下の表は、そのダブルスタンダードを明確に示している。

知事が「被害者」となった事案県民が「犠牲者」となった事案
知事自身の体験:「強い恐ろしさ」を感じたと主張**県民が受けた被害:**死者が出るという重大な結果
**知事の対応:**条例制定のきっかけとして自ら公言し「立法事実」に採用知事の対応:「個別の案件にはコメントできない」と無視し「立法事実」から排除

このテーブルが示すのは、単なる対応の違いではない。それは、**「自分が被害者の時は、個別の事案を法律を作る根拠として公然と語るが、県民が命を落とした事件については『個別案件』を盾に無視する」**という、極めて自己中心的な論理である。自身の「恐怖」は公的な立法事実となり、県民の「死」はコメントすら値しない私的な事柄として切り捨てられるのだ。

この論理的帰結として、条例が「ネット上の誹謗中傷対策」という公的な看板を掲げながら、その実態は事実上の**「知事の悪口を言うたらあきません条例」に変質してしまう、という皮肉な指摘は的を射ている。権力者が自分に都合の良い事実だけを拾い集め、不都合な事実を無視して法律を作る。菅野氏がこれを「北朝鮮やん」**とまで強く表現するのは、このプロセスが民主主義的な手続きから逸脱し、恣意的な権力行使に他ならないからである。

この歪んだ立法事実という「原罪」は、次に検証する1500万円の広報予算執行において、県民の税金を欺瞞の上塗りに使うという、さらなる背信行為へと発展する。

——————————————————————————–

2. 1500万円の「踏み絵」:誠実さを欠いた空虚な広報キャンペーン

1500万円という多額の税金を投じて行われる広報キャンペーンは、この条例に対する知事の「本気度」と「誠実さ」を測るリトマス試験紙、いわば「踏み絵」として機能した。そして、知事はその踏み絵を拒絶することで、このキャンペーンが県民を守るための真摯な取り組みではなく、単なる体裁を整えるための「パフォーマンス」に過ぎないことを自ら証明してしまった。

記者会見で提示された核心的な提案は、行政の長としての覚悟を問う、至極真っ当なものであった。

  • 提案: 1500万円もの税金を使い、発信力のある知事自身が出演するのであれば、「誹謗中傷はやめよう」という抽象論に終始すべきではない。県民の記憶に新しく、実際に死者が出た**「県内で起きた具体的な死亡事件(立花被告の件)」**を踏まえたメッセージを発信するべきだ。
  • 意図: なぜなら、現実に起きた悲劇を教訓として共有することこそが、再発防止に実効性をもたらす唯一誠実な方法だからである。

しかし、この誠実さを問う提案に対し、知事は具体例への言及を頑なに拒否し、「SNSにおける誹謗中傷はすべきでないということをしっかり伝えていく」という、判で押したような抽象的な回答に終始した。決定打となったのは、記者の「(立花被告の件は)踏まえられていないということですね」という念押しの確認を、知事が否定しなかったことである。

このやり取りが露呈させた倒錯した論理は、以下の比喩を用いることで、その異常性が一層際立つ。

たとえるなら、「飲酒運転による死亡事故が多発している地域で、交通安全キャンペーンに多額の予算を使いながら、事故の原因となった『飲酒』という具体的な言葉を使うことを頑なに拒否し、『みんなで仲良く運転しましょう』という曖昧なポスターを作ろうとしている」ようなものだ。

最も深刻な事例と、そこから得られるはずの最も重要な教訓を意図的に排除したキャンペーンは、もはや啓発とは呼べない。それは税金を使って作られる「空虚なパフォーマンス」であり、責任ある行政が行うべき事業とは到底言えない。知事がなぜ、これほどまでに不誠実な態度を貫くのか。その矛盾を正当化するために彼が持ち出した「言い訳」の欺瞞性を、次に検証する。

——————————————————————————–

3. 「中立性」という虚偽:自己保身のために崩壊する論理

自らのダブルスタンダードを追及された知事が、その矛盾を正当化するために持ち出したのが「行政の長として個別の案件にはコメントしない」という理屈だった。一見、公平性を保つための正当な姿勢に見えるこの主張は、しかし、知事自身の過去と現在の行動によって、自己保身のための都合の良い嘘であることが徹底的に証明されている。

知事の主張が「嘘」であることを示す決定的な証拠は、少なくとも3つ存在する。

  1. 過去の矛盾: この条例制定のきっかけについて、知事自身が過去の会見で、**「泉房穂氏のツイート(個別案件)」**に「強い恐ろしさ」を感じたことを公式に語っている。この事実は、「個別案件には触れない」という現在のルールが、後付けの言い訳に過ぎないことを雄弁に物語っている。
  2. 現在の矛盾: 「個別の案件にはコミットできない」と連呼していたまさにその同時期に、知事はSNS上で**「マッチ専門店(個別案件)」**という、無害で好意的な一企業の商業アカウントに個人的にリプライを送り、気さくに交流している。
  3. 結論: これらの事実から導き出される結論は明白である。知事にとって「行政の中立性」とは、守るべき崇高な原則ではない。それは、自分への批判や責任追及につながる不都合な事案(泉氏、立花氏の件)を避ける時だけに使われる、ご都合主義の盾に過ぎないのである。

菅野氏が「言うてることとやってることが違いすぎる」「むちゃくちゃな理屈」と呆れるのも無理はない。この露骨なダブルスタンダードは、知事が公正さよりも自己保身を優先する姿勢を決定づけている。もはやこれは単なる性格の問題ではない。この一連の欺瞞は、行政の長がその最も本質的な責務である「説明責任」をいかにして放棄したかという、決定的な証拠なのである。

——————————————————————————–

4. 結論:公権力の私物化と行政の長の「無責任」

菅野氏が明らかにしてきたのは、誹謗中傷対策という大義名分の下で繰り広げられる、知事のダブルスタンダード、欺瞞、そして責任逃れの数々である。これらの行動は、単なる判断ミスや失言ではなく、行政の長としての資質を根本から問う「無責任」という言葉で断じざるを得ない。

その無責任さの本質は、以下の3点に集約される。

  • 命より自己愛の優先: 県民の「死」という取り返しのつかない重大な結果を無視し、自身の「怖かった」という感情を条例制定の第一の根拠とする、倒錯した優先順位。
  • 税金を使った責任の隠蔽: 1500万円もの予算を、真の再発防止ではなく、核心を避けた「やってる感」の演出(空虚なパフォーマンス)に費やそうとする、納税者への背信行為。
  • 嘘による説明責任の放棄: 「中立性」という虚偽の盾を使い、自身に不都合な事実から逃げ続ける、公人としてあるまじき不誠実さ。

これらの行為は、もはや個人の資質の欠如というレベルを超えている。それは、**「県民を守る」ために与えられた公権力を、「自分を守る」ために使う「公権力の私物化」**に他ならない。

「この記事が少しでも役に立った、面白かったと感じていただけたら、ぜひ下のバナーをポチッとクリックして応援をお願いします! いただいた1クリックが、私のブログを続ける大きな励みになります😊                                       人気ブログランキング
人気ブログランキング ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

コメント

タイトルとURLをコピーしました