なぜ「助ける」ことが組織を破壊するのか?──兵庫県庁の病理から学ぶ「イネブラー」という名の共犯者たち | 菅野完 朝刊チェック 文字起こし
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なぜ「助ける」ことが組織を破壊するのか?──兵庫県庁の病理から学ぶ「イネブラー」という名の共犯者たち

はじめに: 善意の罠

2025/12/3(水)朝刊チェック: 「外国人問題」に真剣に向き合うべきなのは、立憲民主党と共産党だ。

誰かの問題を手助けしようとしたら、かえって状況が悪化してしまった──。そんな経験はないだろうか。良かれと思ってしたアドバイスが相手を追い詰めたり、肩代わりした仕事が本人の成長を妨げたりする。こうした善意の罠は、私たちの日常に潜んでいる。

この現象を鋭くえぐり出すのが、心理学における「イネブラー(Enabler)」という概念だ。イネブラーとは、その善意のサポートによって、結果的に相手の破壊的な行動や依存を助長してしまう「共犯者」を指す。

この強力なフレームワークこそ、斎藤元彦知事をめぐる兵庫県庁の混乱を駆動する、隠された病理的エンジンを白日の下に晒す鍵となる。一連の騒動は、単なるトップ個人の資質の問題ではなく、彼を支える「優秀な」職員たちの存在によって、病理が深刻化している構造的な問題なのだ。

組織全体がイネブラーと化してしまった時、一体何が起きるのだろうか?

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1. イネブラーの逆説:なぜ「善意の尻拭い」が破壊のエンジンとなるのか

依存症の理論において、イネブラーとは単なる傍観者や被害者ではない。問題を悪化させる「共犯者」であり、異常な行動のアクセルを踏み込む「推進役」として定義される。

この逆説的な構造を理解するために、菅野氏は「田中さんの家」という象徴的なアナロジーが用いられる。

  • 田中さんの父親は、週に一度だけ酒を飲む。しかし、飲むと必ず暴れ、家中の家具を破壊してしまう。
  • 翌朝、妻と子供たちは泣きながら、父親が目覚める前に壊れた家具をすべて片付け、家をきれいに掃除する。子供を学校に行かせなければならないからだ。
  • その結果、目を覚ました父親の目に映るのは、いつも通りのきれいな家である。彼は自分が引き起こした惨状を目にすることなく、「自分は酒を飲んでも大きな問題は起こしていない」と錯覚し、また安心して次の週も酒を飲み、暴れることを繰り返す。

ここで重要なのは、家族の「片付け」という行為こそが、父親の破壊行動を永続させる唯一の燃料なのであるという点だ。もし家族が家をそのままにして出て行けば、父親は瓦礫の山の中で目覚め、自らの行いの結果と向き合わざるを得なかったはずだ。「助ける」「後始末をする」という善意の行動こそが、本人から現実を直視する機会を奪い、問題を修復不可能なレベルまで悪化させるエンジンとなっているのである。

イネブラーとは、善意や責任感、あるいは自身の心の弱さから、異常者が撒き散らした『ゴミ』を拾って歩く人々のことだ。 今の兵庫県庁では、職員たちが優秀な『掃除機』となって、知事という発生源から出る不祥事や嘘を即座に吸い取ってしまっている。そのおかげで部屋(県政)は一見きれいに見えるが、その清潔さこそが、知事に『自分は汚していない』という致命的な錯覚を与え続け、事態を修復不可能なレベルまで悪化させている主犯(推進役)なのである。

2. 依存症の再定義:問題は悪癖ではなく「破られた約束」にある

この理論における「依存症」は、物質の摂取量や行為そのものではなく、その行為が「社会生活への支障」を引き起こしているかどうかで定義される。

この直感に反する定義を理解するために、理論は極めて重要な対照実験を提示する。

  1. 対照実験としての富豪: 無人島を買い切り、誰とも会う約束のない大富豪が、朝から晩まで酒を飲んで暮らしている。彼は医学的にはアルコール中毒かもしれないが、誰との社会的約束も破っていないため、このフレームワークでは「依存症の問題」があるとは見なされない。
  2. サラリーマンの事例: 営業中のサラリーマンが、駅の売店でワンカップ酒を一杯飲んだために、大事な商談に15分遅刻してしまった。たった一杯でも、彼の飲酒は「社会的な契約を履行できない」という結果を招いた。これこそが、ここで言う「依存症」である。

この視点を兵庫県政に当てはめてみよう。斎藤知事が関西学院大学に招待されていないのに「行く」と嘘をついた一件は、まさにサラリーマンの遅刻と同じ「社会生活への支障」であり、深刻な病理の兆候だ。そして、県庁職員たちが公務日程を改ざんし、アリバイ工作に奔走した行為の本質がここにある。組織的イネブラーの第一の機能は、公人の周りに「偽りの無人島」を建設し、その行動がもたらす社会的結果から本人を隔離することで、病理を維持することなのだ。

3. 共犯者の心理学:なぜ「善良な人々」がイネブラーになるのか

イネブラーの行動は悪意からではなく、責任感や自己防衛といった、人間的な動機から生まれる。

では、なぜ彼らは結果的に破壊を助長する「共犯者」になってしまうのか。その心理は、立場によって二つに分けられる。

  • 職員(組織的イネブラー): 彼らの動機は、「ここで私が尻拭いをしなければ、県政が機能不全に陥ってしまう」という強い責任感だ。しかし、それは長期的な弱さから生まれる短期的な正しさである。業務の停滞という短期的な混乱を避けるための彼らの行動は、知事の異常性を温存・増長させ、結果として「長期的な社会悪」に加担してしまっている。
  • 配偶者(個人的イネブラー): 最も身近なイネブラーである配偶者の動機は、より根源的な自己防衛にある。異常な状況下で自分自身の「心の平穏」を保つためには、パートナーの言動を「100%正しい」と信じ込む(全認する)しかない。菅野氏は、この心理状態を黒澤明監督の映画『蜘蛛巣城』で、手についた幻の血を洗い続ける妻の狂気に例える。それは愛ではなく、精神が崩壊しないための必死の防衛本能なのだ。

イネブラーの悲劇はここにある。彼らの行動は、忠誠心、責任感、あるいは自己を守ろうとする弱さといった、理解可能な人間的特性に根差している。しかし、その行動こそが、機能不全のシステムを維持するための主要な燃料となってしまうのだ。そして、この『蜘蛛巣城』の狂気は、もはや配偶者個人に留まらず、県庁全体を覆う「死の匂い」となって、職員たちの精神を蝕んでいる。

4. 究極の治療法:なぜ「見捨てる」ことだけが唯一の正解なのか

この病理を断ち切る唯一の方法は、イネブラーが「助ける」ことをやめること、すなわち「見捨てる」「逃げる」ことである。

これは冷酷に聞こえるかもしれないが、極めて論理的な結論だ。「田中さんの家」のアナロジーに戻れば、家族がすべきことは、家を破壊されたままの状態にして出て行くことである。父親が翌朝、自らが作り出した惨状の中で一人目覚めること。その現実との直面こそが、変化を生む唯一のきっかけとなる。

これを兵庫県政に適用するならば、職員が取るべき行動は、退職、長期休暇、あるいは事実上のストライキによって、組織を物理的に機能不全に陥らせることだ。後始末をする人間がいなくなって初めて、知事(そして県民)は、県政がどれほど「破壊」されているのかという現実に直面せざるを得なくなる。

この解決策は、イネブラーが陥っていた「弱さ」とは正反対の、途方もない「強さ」を要求する。だからこそ、そのロジックは逆説に満ちている。この病理的なシステムにおいては、最も責任ある行動とは「無責任」になることであり、最も倫理的な選択とは「迷惑をかける」ことなのだ。知事の嘘や不始末に加担し続けるという大きな「社会悪」を断ち切るために、職務を放棄することこそが、逆説的に最も責任感のある行動となる。

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結論:あなたの「ゴミ」を片付けているのは誰か?

機能不全に陥ったシステムの中では、私たちの最良の意図が、最悪の結果を生み出すことがある。「イネブラー」というフレームワークは、一見すると忠実で勤勉な人々が、いかにして破壊的なパターンを維持する無自覚な共犯者になりうるかを浮き彫りにした。

兵庫県庁の事例は、私たちに組織や人間関係における根源的な問いを突きつける。

あなたの周りには、誰かの「ゴミ」を懸命に吸い続ける「優秀な掃除機」はいないだろうか。そして問うべきは、そのゴミの発生源は誰かということだ。

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