民主主義の自己破壊:斎藤知事の事例から読み解く「正当性」と「正しさ」の致命的乖離 | 菅野完 朝刊チェック 文字起こし
PR

民主主義の自己破壊:斎藤知事の事例から読み解く「正当性」と「正しさ」の致命的乖離

序論:問われるべき民主主義の本質

2025/11/29 土曜日雑感:ついに安倍晋三を超えた斎藤元彦

兵庫県の斎藤元彦知事を巡る一連の問題は、単なる一地方行政の不祥事として片付けられるべきものではない。むしろ、この事例は現代民主主義がその内奥に抱える、より普遍的かつ根源的な課題を鋭く浮き彫りにしている。それは、選挙という民主的プロセスによって与えられた権力の**「正当性(レジティマシー)」と、その権力が行使される内容の「正しさ(ライトフルネス)」**との間に生じる、宿命的な緊張関係である。この二つの原理が健全なバランスを保つことこそが、民主主義を権力の暴走から守る核心的なメカニズムであり、本稿の目的はこの緊張関係の重要性を斎藤知事の事例を通じて再検証することにある。

議論の出発点となるのは、知事自身の「自己絶対化」を象徴する以下の発言である。

「あらゆる問題については適正的法に適切に対応させていただいた」

この宣言は、単なる答弁を超えて、政治哲学的な問いを我々に突きつける。なぜなら、選挙で選ばれたという「正当性」を盾に、自身の全ての言動が「正しい」と主張することは、権力に対するあらゆる外部からの批判的検証を論理的に無効化しようとする試みに他ならないからだ。

本稿は、特定の個人や事例を断罪することを主眼とするものではない。むしろ、この一件を「剥き出しの民主主義」がもたらす脅威の具体例として捉え、民主主義と自由主義が相互に抑制し合うことで初めて機能するという、西側先進社会の根幹をなす政治システムの構造を、より高次の次元で分析することを目的とする。

1. 健全な民主主義を支える二つの柱:「レジティマシー」と「ライトフルネス」

民主主義社会が安定的に機能するためには、互いに補完し、かつ緊張関係にある二つの基本原理が不可欠である。一つは、選挙という手続きを経て統治者に権力を付与する**「民主主義」の原理。もう一つは、その権力行使の内容が倫理や法、常識に照らして妥当であるかを常に問い続ける「自由主義」**の原理である。いわば、社会を前進させる「アクセル」としての民主主義と、暴走を防ぐ「ブレーキ」としての自由主義。この両輪が揃って初めて、社会は安定した航海を続けることができる。

この二つの原理は、政治哲学の用語を用いて、より正確に定義することができる。

  • 正当性(レジティマシー) 選挙という民主的プロセスを経て、その地位に就く権利が与えられた状態。これは、社会を牽引し、政策を断行するための強力な「アクセル」として機能する。権力者は、このレジティマシーを根拠に統治を行う。
  • 正しさ(ライトフルネス) 選挙の結果とは独立して、権力者の言動が本当に正しいかどうかを問う批判的検証のプロセス。これは自由主義の精神に根ざしており、「間違っていることは間違っている」と指摘し続ける社会の「ブレーキ」としての役割を担う。議会、メディア、そして市民社会による監視がこれに含まれる。

権力の暴走を防ぐためには、この二つの原理が健全な「緊張関係」を保つことが絶対条件となる。選挙で勝ったからといって、その権力者の行動がすべて許されるわけではない。常に「ライトフルネス」の観点からの厳しい視線に晒されることで、権力は自らを律し、軌道修正を余儀なくされる。この緊張関係が失われ、自由主義というブレーキが機能不全に陥った状態こそが、**「剥き出しの民主主義」**である。それはアクセルしかない車のように、破滅的な結末へとひたすら突き進む、極めて危険な状態と言える。

2. 事例分析:斎藤知事の言動に見る「剥き出しの民主主義」の顕在化

前章で提示した理論的枠組みは、斎藤知事の具体的な事例を分析することで、その現実的な危険性をより明確に理解することができる。抽象的な政治哲学の概念が、実際の政治の場でどのように権力の暴走を引き起こすのか。そのメカニズムが、知事の言動にはっきりと見て取れる。

問題の核心は、知事が発した以下の宣言にある。

「あらゆる問題については適正的法に適切に対応させていただいた」

この発言は、自身の統治における**「無謬性(決して誤らないこと)」**の主張に等しい。知事は、選挙によって得た「レジティマシー」を絶対的な権威の源泉とし、自身の全ての判断と行動が、寸分の狂いもなく「適切」であり「適法」であったと断じている。これは、権力行使の内容を検証する「ライトフルネス」の原理を、正面から拒絶する態度である。選挙で選ばれた自分は間違えない、故に外部からの批判や検証はそもそも不要である、という論理だ。

この自己絶対化がもたらす必然的な帰結は、権力分立システムの破壊である。知事と議会が、それぞれ民意を背負い、相互に監視し合う**「二元代表制」**は、地方自治の根幹をなす仕組みだ。しかし、知事が「常に正しい」のであれば、議会によるチェック機能は存在意義を失う。菅野氏が指摘する「議会いらんやん」という批判は、この論理的矛盾を的確に突いている。知事の姿勢は、制度そのものを内側から空洞化させる危険性をはらんでいるのだ。

斎藤知事の事例は、自由主義というブレーキが完全に機能不全に陥った「剥き出しの民主主義」の典型例と言える。選挙で得た権威のみが独走し、批判的検証を一切受け付けない。このような状態が、権力の「暴力化」へと繋がることは、歴史が証明している。

3. 権力監視の不在がもたらす普遍的脅威:全体主義化と暴力への道

兵庫県で起きたこの事態は、単なる一地方の問題に留まらず、歴史的・国際的に見られる権力暴走のパターンと軌を一にしている。自由主義による権力監視を欠いた民主主義が、なぜ普遍的に全体主義や暴力へと帰結するのか。そのメカニズムを解き明かすことは、我々自身の社会を守る上で極めて重要である。

菅野氏が指摘するように、斎藤知事の統治スタイルには、全体主義国家との構造的な類似性が見られる。

  • 「民主主義しかない」国家 中国や北朝鮮は、国名に「人民民主主義共和国」を掲げるが、これは自由主義による権力監視が働かない「民主主義しかない」状態を象徴している。選挙(あるいはそれに類する人民の支持)という「民主主義」の形式を盾に取りながら、自由主義に基づく権力監視や批判が完全に排除されているのである。
  • 「兵庫民主主義人民共和 国」という批判 菅野氏が兵庫県を「斎藤民主主義人民共和 国」あるいは「兵庫民主主義人民共和 国」と揶揄したのは、単なる言葉遊びではない。それは、自由主義のブレーキを失った権力が自己絶対化し、全体主義的な統治構造へと変質していく本質を突いた、痛烈な政治的批判なのである。

この「剥き出しの民主主義」がもたらす悲劇は、フランス革命という歴史的事件にも見て取れる。王権を打倒した革命は、間違いなく「民主主義」の勝利であった。しかし、その熱狂は自由主義という冷静なブレーキを欠いていたが故に、「ブルボン王朝の首とマリー・アントワネットを殺した」という暴力的な結末に行き着いた。ここから得られる教訓は極めて重い。「ブレーキがなければ、必ず人が死ぬ」という警句は、歴史の必然性を物語っている。

権力監視の欠如がもたらす「暴力」は、決して比喩ではない。それは、ソースが「何人もの人々を自殺に追い込んだ」と示唆するように、具体的な悲劇として人々の人生を破壊しうる。批判を許さない絶対的な権力は、社会的に、そして時には物理的に、人々を追い詰めるのである。

結論:民主主義の健全性を守るために

本論考で考察してきたように、斎藤知事の事例から我々が学ぶべき最も重要な教訓は、民主主義がその健全性を保つためには、選挙による「正当性(レジティマシー)」の確保だけでは全く不十分であるという事実だ。それと同等、あるいはそれ以上に、自由主義の精神に基づく絶え間ない批判と検証、すなわち「正しさ(ライトフルネス)」を問う制度的保障が不可欠なのである。

行政の長として、セクハラや暴言といった個別の問題ももちろん許されるものではない。しかし、菅野氏が指摘するように、民主主義の根幹は、知事と議会が「同じ重さの正当性」を持ち、互いに絶えず「刃を向け」合うことで機能する権力の相互監視にある。この健全な緊張関係そのものを破壊する行為は、個別の政策の過ちとは比較にならないほど**「根源的に不適格」**とされる。なぜなら、それは民主主義というシステム自体を自己破壊へと導く行為だからだ。

最終的に、民主主義の健全性を守る責任は、我々一人ひとりにある。権力者に対して、その地位の「正当性」を認めつつも、その言動の「正しさ」を常に問い続けること。この批判的な精神こそが、民主主義を暴走から守る最後の砦となる。選挙で委任した権力が、我々自身の自由を脅かす凶器へと変わることのないよう、我々は監視者であることを決してやめてはならない。

「この記事が少しでも役に立った、面白かったと感じていただけたら、ぜひ下のバナーをポチッとクリックして応援をお願いします! いただいた1クリックが、私のブログを続ける大きな励みになります😊                                       人気ブログランキング
人気ブログランキング ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

コメント

タイトルとURLをコピーしました