2026/1/9(金)朝刊チェック:どうやら維新は崩壊のフェーズに突入したようです
導入:なぜ今、『鬼平犯科帳』を語るのか
私が菅野完でございます。1月9日朝刊チェックの時間がやってまいりました。頑張っていかなあかんなぁ~言うてるところなんですけど、今日は普段のニュース解説から少し舵を切り、文化評論、それも『鬼平犯科帳』という国民的時代劇について、どっぷりと語り込んでみたいと思います。
正直に申し上げると、松本幸四郎が主演を務める新作の『鬼平犯科帳』、私はこれまで意図的に視聴を避けてきました。もちろん、鬼平ファンとして見たい気持ちは山々でしたし、幸四郎さんの実力を過小評価しているわけでもありません。しかし、制作が「松竹」であるという一点が、どうしても引っかかっていた。今の松竹には、時代劇を撮れる野外セットがたった一つしかない。料亭も、盗賊のアジトも、武家屋敷も、すべてが同じ場所で撮られる。その現実が、作品への没入を著しく妨げるであろうことは、火を見るより明らかだったのです。
しかし、先日、名優・日野正平さんが亡くなられました。彼が素晴らしい時代劇役者であったことは論を俟ちません。その日野さんの遺作となったのが、何を隠そうこの新作『鬼平』だった。これはもう、見ないわけにはいかない。日野さんへの追悼の意を込めて、私はようやく重い腰を上げたのです。
そして、鑑賞を終えた今、私が語るべきは単なる一個人の感想ではありません。この幸四郎版『鬼平』の光と影を徹底的に分析することを通じて、現代の時代劇が抱える構造的な病巣、そして、時代を超えて継承されるべき作品の「魂」とは何かを、白日の下に晒していきたいと思います。
1. 松本幸四郎版『鬼平犯科帳』の評価:光と影
新作『鬼平犯科帳』を評価するにあたり、単に「役者の演技が良かった」などという月並みな言葉で片付けては、その本質を見誤ることになります。映像作品とは、役者の熱演はもちろんのこと、カメラワークや照明といった映像技術、作品世界を彩る音楽、そして物語の骨格をなす脚本、これらすべてが有機的に絡み合って初めて成立する総合芸術です。その観点から、松本幸四郎版『鬼平』が放つ確かな「光」と、看過し得ない致命的な「影」を、多角的に分析していきましょう。
評価すべき「光」:制作陣の奮闘と役者の熱演
まず賞賛すべきは、前述した「野外セットが一つしかない」という絶望的な制約の中で、制作陣が見せた奮闘です。彼らは同じセットを別物に見せるため、カメラのアングルを大胆に変え、クレーンを駆使し、あるいは地面スレスレからの「煽り」で撮るなど、様々な工夫を凝らしていました。何よりも照明技術が素晴らしかった。時代劇のお作法に則った陰影の使い方は見事なもので、畳に座るシーンのカメラワークも実に堂に入っていました。京都の職人たちが撮れば、これだけのものが出来るのだと感心させられました。
役者陣もまた、この厳しい環境下で素晴らしい芝居を見せています。主演の松本幸四郎、そして今は亡き日野正平をはじめ、出演者の演技レベルは総じて高かった。もちろん、「ちょんまげを被った現代劇」という感は否めない部分もありましたが、それを差し引いても彼らの熱演は作品の確かな見どころであったと言えるでしょう。
看過できない「影」:音楽と脚本の致命的な欠陥
しかし、これらの「光」が強ければ強いほど、作品が抱える「影」はより一層、暗く、深く、そして深刻なものとして浮かび上がってきます。
音楽の問題点:フリー素材と化した劇伴
私が視聴中に覚えた最大の違和感、それは音楽でした。悲しいシーンでは取ってつけたようなバイオリンの旋律が流れ、ドラマチックな場面ではやたらとシンセサイザーの派手な音が鳴り響く。まるで**「フリー素材みたい」であり、はっきり言えば「YouTube動画みたい」**な安っぽさだったのです。
これは単なる好みの問題ではありません。『鬼平犯科帳』というシリーズは、初代から続く「音楽の時代劇」という偉大な伝統の上に成り立っています。その文脈を完全に無視した今回の劇伴は、作品世界から深みを奪い、シリーズの歴史そのものを断絶させる暴挙に他なりません。
脚本の改変—『老盗の夢』の悲劇
そして、音楽以上に致命的だったのが脚本の改変です。私が鑑賞したエピソード『老盗の夢』を例に取り、その問題点を徹底的に論じましょう。
本来、この『老盗の夢』という物語は、救いのない悲劇です。盗賊から足を洗い、京都で隠居していた伝説の大盗賊・蓑火の喜之助。彼は若い芸者に惚れ込み、彼女に金を残してやるため、人生最後の盗みに身を投じます。しかし、江戸で昔の仲間と事を起こそうとする中で、血気にはやる若い盗賊に殺されてしまう。
ここまでは良い。問題はその結末です。歴代シリーズ、特に多くの人が記憶する中村吉右衛門版で描かれてきた「お約束」は、映画的ですらありました。喜之助が「この金を京都の女に…」と言い残して死ぬと、画面は暗転。次に映し出されるのは、京都・東寺の五重塔。遠くから三味線の音が聞こえ、オープニングと同じ赤い布団が映る。そこには、喜之助のことなどすっかり忘れ、別の若い男の腕の中で「うち、最近痩せたって言われるんです。誰のせいやろなぁ」と嬌声をあげる芸者の姿がある。そして、その瞬間にジプシー・キングスのテーマ曲が流れ始めるのです。老盗賊が見た甘い夢は、当の本人には全く届かず、無残に踏みにじられて終わる。この救いのない皮肉と完成されたニヒリズムこそが、この物語の様式美であり、核心なのです。
ところが、幸四郎版はどうでしょう。なんと、届けられた金を受け取った芸者が**「あの人、死んだんですか。私、待ってたのに…」と泣き崩れるのです。なんという「ええ話」でしょうか。これはもはや改変ではなく、改悪です。私が使った言葉をそのまま繰り返しましょう。「おぼこい」「やぼ」「台無し」**。
この変更がどれほど愚かしいことか。それは、**「忠臣蔵の結末で、吉良上野介が実は超人的な戦闘能力を秘めており、討ち入りに来た四十七士を全員返り討ちにした」**というくらいの改変です。物語の根幹を破壊し、池波正太郎が描いた世界の様式美を完全に踏みにじっている。
このように、幸四郎版『鬼平』は、制作陣や役者の奮闘という「光」がありながらも、音楽と脚本という作品の根幹において、許しがたい「影」を抱えていました。そしてこの「影」は、輝かしい歴代シリーズと比較することで、より一層その深刻さを増すのです。
2. 歴代『鬼平』比較論:継承されるべき「魂」とは何か
歴代の『鬼平犯科帳』を比較検討することは、単なる懐古趣味ではありません。それぞれの時代に作られた作品を並べてみることで初めて、このシリーズが持つ「魂」とも言うべき本質的な要素、すなわち、音楽、役者の人物解釈、そして世界の描き方といった、継承されるべき伝統が見えてくるのです。
「音楽の時代劇」としての伝統と山下毅雄の偉業
新作の音楽がいかに凡庸であったかは既に述べましたが、それは『鬼平』が本来「音楽の時代劇」であったことを知れば、さらに明白になります。初代『鬼平』(松本白鸚版)の音楽を手掛けたのは、山下毅雄(ヤマタケ)。私が**「戦後日本が生んだ最高の音楽家」**と断言して憚らない天才です。
ヤマタケサウンドの真骨頂は、例えば『大岡越前』のテーマ曲を聴けば一目瞭然です。誰もが知る「♪ティリリ ティリリ」という一つのテーマモチーフを、彼は実に多様にアレンジしてみせました。大岡越前が登場する勇壮なアレンジ、妻・幸恵のテーマとしての優しいスキャットバージョン、事件が動く緊迫感のあるバージョン。たった一つのメロディを自在に操ることで、登場人物の心情や場面の空気を完璧に表現する。この音楽的発明こそが、ドラマに圧倒的な深みを与えていたのです。
そして『鬼平犯科帳』もまた、この偉大な伝統の上に成り立っていました。一つのモチーフが様々な形で劇中に現れることで、世界観に統一感と奥行きが生まれる。新作がこの文脈を全く理解せず、安易な「フリー素材」のような音楽に逃げたことは、シリーズの魂を冒涜する行為に等しいのです。
役者論:歴代・長谷川平蔵の多様な「鬼」の姿
『鬼平』の面白さは、主演俳優の解釈によって、主人公・長谷川平蔵が全く異なる顔を見せる点にもあります。
丹波哲郎のサイコパス的恐怖
歴代の平蔵の中で、私が最も「鬼」の名にふさわしいと評価するのが、丹波哲郎版です。彼の演じる平蔵は、表情がまるで『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクター。盗賊を殺すことを心から楽しんでいるのです。部下に「歯向かう者は叩き斬れ」と命じる時、彼の口角は喜びで歪んでいる。彼の「鬼」としての本性を最も象徴するのが、あるエピソードのクライマックスです。追い詰められた盗賊が恐怖に震えながら「鬼だ…鬼平だ!」と叫ぶ。その瞬間、丹波哲郎の平蔵は、恍惚の笑みを浮かべてこう応えるのです。「そうだよ」。これはもう、完全に**「サイコパスの顔」**です。この、殺しを楽しむ異様な迫力と恐怖こそが、盗賊たちに心底恐れられた「鬼の平蔵」のイメージを最も純粋に体現していました。
中村吉右衛門の完成された様式美
多くの人が『鬼平』として真っ先に思い浮かべるであろう中村吉右衛門版。正直に言えば、私が全面的に好きなわけではありません。しかし、その完成された様式美、特に名セリフのかっこよさは認めざるを得ません。捕らえられた密偵・おまさを助けに単身乗り込み、浪人たちに「あの女の色香に迷ったか」と揶揄された際に放つ一言。
「うぬら下郎に、あの女の色が斬れるか」
このセリフ回しだけは、吉右衛門版があまり好きではない私ですら、文句なしにかっこいいと認めます。
その他の名優たち
そもそも『鬼平犯科帳』という物語は、初代・長谷川平蔵を演じた**松本白鸚(先々代の幸四郎)**をモデルに、池波正太郎が「当て書き」したことから始まりました。その後、前述の丹波哲郎、萬屋錦之介、そして中村吉右衛門へとバトンが渡され、それぞれの時代を代表する名優たちが、多様な「鬼」の姿を私たちに見せてくれたのです。
主演だけでなく、脇を固める名キャラクターたちも、時代ごとに「ベストキャスト」は異なります。例えば岸井左馬之助なら、初代(松本白鸚版)の加東大介も良いし、吉右衛門版の田村高廣も捨てがたい。しかし、うさぎの忠蔵に至っては議論の余地がありません。古今亭志ん朝、彼こそが至高です。女の家の張り込みを命じられた時の、あの心底からの喜びを表現できる役者など、後にも先にも志ん朝師匠しかいません。この豊かなキャラクター造形と、それを演じる役者たちの競演こそが、『鬼平』の世界を重層的なものにしてきました。そして、この豊かな世界観を支えていたのは、言うまでもなく制作の現場です。しかし、その現場こそが今、深刻な危機に瀕しているのです。
3. 現代時代劇の構造問題:松竹撮影所の限界
新作『鬼平』が抱える音楽や脚本の問題は、決してこの作品固有のものではありません。むしろ、それらは現代日本の時代劇制作全体が直面する、より根深く、構造的な課題の氷山の一角なのです。その象徴が、私が視聴をためらう最大の理由であった「松竹撮影所」の問題です。
「AVのプール」化する撮影セット
現在の松竹には、時代劇用の野外セットがたった1箇所しかありません。その結果、何が起きるか。料亭も、盗人のアジトも、大名屋敷も、すべてが同じ場所で撮影されるのです。暖簾を掛け替えるだけで、同じ建物が全く別の場所に「変身」する。
この状況を、私はこう表現します。**「AVのプールみたいに、どれ見てもそれ出てくる」**と。一度観れば誰もが記憶してしまう、あまりに特徴的なあのセット。どの時代劇を見ても同じ風景が繰り返し現れることで、視聴者の作品への没入感は著しく削がれてしまいます。これは、制作環境の貧困化が、もはや時代劇というジャンルそのものの生命力を根こそぎ奪おうとしている、極めて深刻な事態なのです。

4. 総論:なぜ新作『鬼平犯科帳』は「魂」を失ったのか
これまでの分析を総括し、松本幸四郎版『鬼平犯科帳』への最終的な評価を下しましょう。
この作品は、役者の演技や限られた中での映像技術といった個々の要素においては、見るべき点がありました。しかし、全体として決定的に失敗していると言わざるを得ません。その理由は、より根源的な問題にあります。
第一に、『老盗の夢』の改変に象徴される、作品の根底に流れるべき救いのないニヒリズムの破壊。 第二に、シリーズの重要な伝統である**「音楽の時代劇」という文脈の完全な無視**。 そして第三に、松竹撮影所の問題に代表される、時代劇というジャンル全体を蝕む制作環境の構造的疲弊。
これらの問題はすべて、一つの結論へと収斂します。すなわち、今回の作り手たちは、『鬼平犯科帳』という作品が持つ「魂」—その様式美、音楽的伝統、そして人間世界のどうしようもなさを描くニヒルな眼差し—を、全く理解していなかった。
この新作の失敗は、単に一つの作品の出来不出来に留まらず、現代において本格的な時代劇を作ることの困難さと、それでもなお、我々が守り、継承すべき本質とは何かを、痛烈に問いかけているのです。




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