※短い広告を1回視聴すると、高品質な朗読音声(約14分)とテキスト追従リーディング機能がアンロックされます。
💡 導入:このコラムを100%味わいつくすために

この第2回からいきなり本論に飛び込んでもらうのも、読者のみなさんの自由ではあるんです。ただそれって、出汁を一切引いてへん鍋に、いきなり刺激の強い激辛ソースだけぶち込んで「これが極上の料理や」と言い張るようなもんでね。
今回扱っている「政治をお笑い草にして面白がる連中のグロテスクさ」や、その果てに行き着く「公開処刑をエンタメとして鑑賞する狂気の心理」の火力には、十分すぎるほど戦慄してもらえるでしょう。ですが、「なぜ私たちがそこまで退廃した言論空間で、あえて自らに過酷な自律を課し、足元を磨いて佇まねばならんのか」という対抗言論の根幹部分が、丸ごと抜け落ちてしまうわけです。
ウケている奴が正しいという表層レイヤーのノイズに目が眩み、自ら首吊り台のロープを首に巻きつけて喜んでいる大衆の浅薄さには、ただただ呆れるほかありません。
その狂った「おもろかったらええ」というOSの侵食に対して、兵庫県庁前の「7.7喪服スタンディング」がいかに完璧な「ちゃんとする」規律をもって巨大な防壁を築いたか。その静謐なるレジスタンスの仕掛けは、第1回で完全に解剖しています。
地獄の症状だけを見て怖がるのも結構ですが、その病理に抗うための唯一の「しつけ」と「規範」を立体的に掴みたいなら、ちょっとだけ遠回りして第1回を通過してもらう方が、結果として何倍も腹に落ちる読書体験になるはずですわ。
【結論】
政治に面白さを求める風潮の果てには、広場の木枠から人間を吊るし上げる公開処刑の見世物化が待っている。菅野完氏は「おもろかったらええ」という軽薄な基本構造(OS)と権力勾配に乗じた「ちょけ」の暴力性を徹底糾弾し、他者の尊厳破壊を娯楽消費する群衆心理の病理に過酷な批判の刃を突きつける。
【ポイント3選】
- ※特級比喩:広場に作られた3mの木枠とロープ、そして『奇妙な果実』のリンチ事件写真。刺激に慣れきった群衆が政治に面白さを追求した果てに行き着くのは、他者の苦悶と死を笑いながら鑑賞する公開処刑の見世物化である。娯楽化された政治は、やがて生々しい破壊と暴力を欲望する狂気へと先祖返りしていく。
- ※論点:人事権や懲戒権、行政権力を握る上位者が「ちょけ」や悪ふざけを政治領域に持ち込む構造的危険性。圧倒的な力関係の下で反論すら許されない下位者への加害は、観客にとって安全なエンターテインメントとして消費され、組織や社会を精神的・物理的な殺戮現場へと変貌させる。
- ※ファクト:兵庫県知事選等で選挙をおちょくり倒した立花孝志をはじめ、河合ゆうすけ、後藤輝樹、浜田聡、へずまりゅう、増山誠らが見せるパフォーマンス。社会規範や言論の公性を破壊し、政治を炎上マーケティングの舞台へ落とし込む言動は、民主主義に対する深刻な焦土化工作である。

「おもろかったらええ」価値観の指弾と政治を娯楽化する構造の解剖
面白さを最優先するOSへの批判と立花孝志らの選挙パフォーマンス
あいつらおもろかったらええというOSで生きてるのよ。大しておもろないのに。
現代の政治空間やSNS空間において、もっとも根深く病理的な広がりを見せているのが、「面白ければ何をしても許される」という極めて軽薄で無責任な行動原理である。菅野氏は、社会規範や公的な言論のルール、他者への最低限の敬意すらも「おもしろ」の演出のための踏み台として消費し、ただ耳目を集めることだけを自己目的化させる基本構造(OS)が、政治の現場を急速に侵食していると強く指弾する。
とりわけ兵庫県知事選をはじめとする近年の選挙戦において、立花孝志らの見せたパフォーマンスは、政治という言論の公性を根底から死滅させる暴挙であった。本来であれば社会の課題を提示し、政策論争を交わすべき神聖な選挙の場を、単なるおちゃらけや炎上マーケティングの舞台へと落とし込み、投票者を単なる「見物人」へと堕落させる手法は、民主主義の言論空間に対する深刻な焦土化工作に他ならない。
そのおもろかったらええと、面白いことは正しいということに対して根源的には中指を突き立てなきゃいけないんですよ。
菅野氏は、「面白さ」や「ウケの良さ」がそのまま正当性や正しさと同義であるかのように錯覚する風潮に対し、いかなる妥協も許されないと断じる。「ウケているから正しい」「面白ければ支持される」という全能感は、思考停止と同調圧力の醜悪な産物であり、言論に携わる者がもっとも警戒し、拒絶しなければならない罠である。
「面白さ」を最上の価値基準として神聖化し、その陰で他者の尊厳や社会の公的秩序が踏みにじられていく事態に対して、私たちは根源的な拒絶の意思を示し、断固として中指を立てて抗わなければならない。ウケ狙いのエンターテインメントに成り下がった政治の醜態を「バカバカしい」と笑って受け流すのではなく、それが孕む倫理的崩壊の深淵に対して、真摯な批判の刃を向け続けることこそが求められている。

公開処刑の狂気と「暴力を鑑賞する群衆」の凄惨な同質性
3mの木枠と『奇妙な果実』に見る見世物・リンチの心理
政治は面白くなければならないって言うでしょ。政治なんて面白いはずないんだから。
世間では時に「政治をもっと身近で面白いものにすべきだ」という無批判な主張が唱えられるが、菅野氏は本質的に政治とは利害の調整や制度の運用、社会の痛みの分配という地味で鬱屈した営みであり、手放しに「面白い」はずがないと一蹴する。政治に分かりやすい刺激やエンターテインメント性を求める欲望そのものが、思考の退廃を招く第一歩となるからだ。
面白い政治というのは広場に3mぐらいの木枠作ってその木枠からロープ垂らして人の首、くくってブランブランさせんのが面白いになんねん、最後。
「政治のエンタメ化」が極限まで推し進められた果てに行き着く先は、広場にしつらえられた3mの木枠から人間を吊るし上げ、その苦悶と死を鑑賞する「公開処刑」の見世物化である。刺激に対する感度が麻痺した群衆は、より過激で生々しい他者の破壊と暴力を求め始め、かつてのリンチや処刑場に群がった狂気へと容易に先祖返りしていくのである。
ここで黒人を木から吊るしてガソリンかけて殺した連中と同じ顔してんねんて。みんなわろてんねん。

ビリー・ホリデイが歌う『奇妙な果実』の背景にある「ジェシー・ワシントン・リンチ事件」の写真には、木に吊るされガソリンをかけられて焼き殺された黒人の遺体を取り囲み、笑顔でカメラを見つめる無数の群衆が記録されている。彼らは特別な怪物などではなく、普段はごく普通の生活を送る人々であり、暴力と見世物が融合した空間の中で、他者の凄惨な苦痛をニタニタと笑いながら消費していた。
現代のネット空間や政治現場において、河合ゆうすけ、後藤輝樹、浜田聡、へずまりゅう、増山誠らがくり広げる「ちょけ」や悪ふざけを取り巻き、面白がって囃し立てる群衆の表情は、まさにあの写真に写し出されたリンチの観客たちと不気味なほど同質である。他人の尊厳が破壊され、公開処刑のように叩かれる様を娯楽として消費する心理の根底には、時代や場所を超えたグロテスクな暴力性が渦巻いている。



『奇妙な果実』とは、1930年代の米国で歌手ビリー・ホリデイが歌い広まった、白人群衆による黒人への不法な私刑(リンチ)と処刑の見世物化を告発した抗議ソングのことです。単なる人種差別批判にとどまらず、他者の悲劇を娯楽消費する群衆心理の残酷さを象徴しています。
権力勾配・人事権・懲戒権のある領域での「ちょけ」の危険性
権力勾配から言うと上位者から下位者に対する暴力はエンターテイメントになりがちなんです。
菅野氏は、非対称な力関係が存在する空間において、圧倒的な上位者が下位者を痛めつけ、辱める行為が、周囲の観客にとって容易に「エンターテインメント」として消費されてしまう危険性を指摘する。殴る側と殴られる側の非対称性が覆らないと分かっているからこそ、観客は痛みを他人事として客観化し、加害の構図を安全な場所から娯楽として楽しむことができるのである。
権力とか人事権とか懲戒権とかっていうものが存在するところでちょけ始めると最後そうなんねんて。
生殺与奪の権限を握る行政権力や、人事権・懲戒権といった圧倒的な刃を保持する領域において、権力者が悪ふざけ(ちょけ)や悪ノリを持ち込むことの恐怖は絶大である。下の者が反論することも拒絶することもできない絶対的な従属構造の中で、上位者が「おもしろ」として振るう暴力は、下位者の魂と生活を物理的・精神的に殺戮する地獄のディストピアを現出させる。
権力を傘に着た悪ふざけは、単なるマナー違反やユーモアなどではなく、もっとも邪悪で残忍な構造的搾取に他ならない。公的な権力を託された者が「ちょける」ことのグロテスクさを軽視し、それをエンタメとして許容する社会は、自ら首吊り台のロープを首に巻きつけるかのような致命的な愚行を冒しているのである。

懲戒権とは、組織の規律を維持するために任命権者(上位者)が下位者に対して免職や停職などのペナルティを科す法的権限のことです。本文では、この一方的な制裁権力を握る者が悪ふざけを行うことで、下位者を絶対的に追い詰めるハラスメントと構造的暴力が発生する危険性を論じる文脈で用いられています。
💡 編集後記:もう一段深い核心へ

政治をお笑い草にして面白がる世間の浅薄さや、他人の尊厳が踏みにじられる公開処刑を特等席で鑑賞する群衆の狂気——その病理のグロテスクさに十分戦慄して、「なるほど、政治のエンタメ化は恐ろしいな」と納得して画面を閉じるなら、そら止めはしません。
ですが、本当の地獄は「大衆がポピュリズムのショーに酔い痴れる」ことそのものにとどまらないんです。その「ちょけ」やウケ狙いの悪ふざけが、何百万という市民の生命と生活を直接左右する行政の土壇場にまで持ち込まれたとき、一体どれほど凄惨な惨劇が引き起こされるのか。
酒を嗜むことも、自動車を運転することも、それぞれ単体であれば何の問題もない正当な行為です。しかし、この二つを同一の空間で混ぜ合わせた瞬間、それは一瞬で人命を奪い去る最凶の犯罪「飲酒運転」へと変貌する。
政治とエンターテインメントを混同させる暴挙もまた、これと完全に同義なんですよ。
何百万の命を乗せた大型バスの運転席で、ウケ狙いの酔っ払いがヘラヘラとハンドルを握り、アクセルをベタ踏みし始めたとき、社会の安全装置はいかにして破壊されるのか。その壊滅的な事故の恐怖と、行政の厳粛性という最後の歯止めを取り戻すための論理については、続く第3回で徹底的に白日の下に晒しています。
単なる政治批評を超えた、この国の生存をかけた恐ろしい病理の真相を見届けたい方は、そのまま次へ進んでみてください。


コメント