記事の要約と図解
【結論】 震災の記憶に対する「当事者の忘れる権利」と、「社会が代わりに記憶する義務」という重い社会契約の再確認。命の重みを単なる数字として扱い、犠牲者数を間違える公職者の無関心と傲慢さを「自然災害と同等の害悪」として徹底的に糾弾し、忘却という暴力に抗う決意を示す。
【ポイント3選】
- 被災地ではなく兵庫にいることへの違和感と怒り: 3.11という特別な日に、モヤモヤを抱えながら兵庫県政の議事録を読み込む異常な朝の風景と、怒りの矛先。
- 当事者はサバイバーズギルトを抱えずに「忘れていい」: 忘却は人間を健全に保つ安全弁であり、当事者が安心して忘れるためには、第三者である社会が「代わりに覚えている」という前提が不可欠である。
- 犠牲者を「数字」として扱う政治家の罪深い本質: 6400人の犠牲者を「4600人」と言い間違える知事の態度は、「愛する人の死が何千回も起きた事件」への想像力を欠いており、死者を二度殺すに等しい無関心の表れである。
未曾有の犠牲を出した震災から15年目の朝。もしあなたが被災の当事者であるならば、無理に記憶に留める必要はありません。生きるために、積極的に忘れてもいいのです。しかし、当事者が安心して忘れるためには、第三者である「社会」が過去の犠牲を正確に記憶し続けるという絶対的な契約が必要です。だからこそ、公職にある者が犠牲者の「数」を間違えるという行為は、決して単なる失言で済まされるものではありません。それは、一人の人間の重い死を「雑な数字」として処理し、二度殺すに等しい行為だからです。本記事では、記憶の風化が進む現代において、政治家に求められる最低限の倫理と、忘却に抗うことの意味を問います。
15年目の朝――当事者の「忘れる権利」と、犠牲者を二度殺す政治の傲慢さ
導入:15年目の朝、兵庫県で抱くモヤモヤとした感情
被災地ではなく、なぜ私は兵庫にいるのか
東日本大震災から15年目の朝を迎えた。本来であれば、少なからぬご縁をいただいた宮城の人々と共に過ごすべき日なのかもしれない。しかし、私は今日、被災地ではなく兵庫県にいる。
正直に吐露しよう。こんな日に兵庫県にいる自分が、ひどく居心地が悪く、気持ち悪いのだ。前夜は色々と考え込んでしまい、ようやく深夜0時前に床に就いたものの、寝付けずに午前3時半には目が覚めてしまった。そこから何かに取り憑かれたように、兵庫県議会の議事録をひたすら読み込んでいた。
「こんなことをしていていいのか」という内なる葛藤が消えない。しかし、やらねばならないことなのだ。なぜなら、私のこの割り切れない思い、そして強烈な怒りの矛先は、現在進行形で社会に害悪を撒き散らしている兵庫県政、とりわけ斎藤元彦知事という存在そのものに向かっているからだ。
災害の記憶と、当事者の「忘れる権利」
「忘れること」は人間を保つための安全弁である
私は当事者ではない。地震や津波でご家族や近しい人を亡くされた方々が抱える悲しみややり場のない憤りは、私のそれとは比較にならないほど深く、重いものだろう。
だからこそ、私は震災や大規模な事故でご家族を亡くされた当事者の方々とお話しする際、常にこう申し上げるようにしている。「忘れましょう。どんどん積極的に忘れてください」と。
生き残ったことに対して申し訳なさを感じる「サバイバーズギルト」など、一切抱く必要はない。「忘れる」という行為は、人間が正気を保ち、健全に生きていくために不可欠な「安全弁」である。その安全弁が機能することは何ら悪いことではないし、当事者には自らを守るために、震災の記憶を忘れて生きていく権利がある。
代わりに「私たちが覚えている」という社会の契約
第三者の「雑な認識」が社会を壊す
しかし、ここで絶対に履き違えてはならないことがある。当事者が安心して「忘れる」ためには、一つの強固な前提条件が必要だ。それは、直接の被害を受けていない我々第三者が、「代わりに私たちが覚えていますから」と約束することである。この暗黙の契約がなければ、社会というものは決して成立しない。
それにもかかわらず、現在の日本社会はどうだろうか。時間が経つにつれ、人々の認識は恐ろしいほど「雑」になっている。

例えば、東日本大震災の被害を、ただ「福島」と一括りにして事足れりとする風潮がその典型だ。確かに福島第一原発事故という最悪の悲劇はあったが、大船渡、気仙沼、石巻、女川、名取、仙台、東松島、南三陸、さらには千葉や茨城に至るまで、広範な地域が甚大な津波被害を受けている。

関西においても同様だ。阪神・淡路大震災を「神戸の地震」程度にしか認識していない者がいるが、淡路島の被害も甚大であり、神戸の東半分から西宮、尼崎にかけての国道2号線沿いでも壊滅的な被害が出ている。 さらに高槻や吹田でも大きな被害があったのだ。
あれほど大量の命が失われたにもかかわらず、被害の実態を「雑に把握する」我々の傲慢さ。これこそが、社会を根底から腐らせる病理である。
死者を「単なる数字」として扱う公職者への怒り
犠牲者数を間違えるという「万死に値する罪」
その社会の「雑さ」と「傲慢さ」の象徴として、私の脳裏に浮かぶのが斎藤元彦という男の顔だ。
彼は兵庫県知事という公職にありながら、あろうことか公の場で阪神・淡路大震災の犠牲者数を「4600人」と言い間違えた。実際の死者数は6434人(関連死を含めればさらに多い)である。最初の発言から根本的に間違えているのだ。
これは単なる言い間違いで済まされる問題ではない。公職者が死者の数を正確に数え、記憶することは、「社会として、その一人ひとりの死を重く受け止めています」という明確な意思表示である。
当事者から見れば、あの震災は「6400人が死んだ災害が1回起きた」のではない。断じて違う。「自分が愛する人、自分を愛してくれた人の死」という、この世で最も理不尽で悲しい事件が、6400回起きたということなのだ。
命の重みを実感として持たず、数字を雑に扱い、あまつさえ被災地のトップがそれを間違える。これは、犠牲者をもう一度殺すに等しい、絶対に許されざる行為である。

結論:無関心という「災害」に抗うために
意思なき「激甚災害」としての政治家
斎藤知事の行動を見ていると、そこには悪意さえないことがわかる。ただ、他者への想像力や、公職者としての道義的責任という概念が決定的に欠落しているのだ。己の感覚と欲求のみで動き、結果として社会に根源的な被害を与え続けている。
それはまるで、地震や津波が「人を殺してやろう」という意思を持たずに町を破壊するのと同じだ。私から見れば、彼の存在そのものが「激甚災害」に等しい。災害時に人々の命を守るべき最高責任者が、このような認識であること自体が、令和の日本の異様さを象徴している。
3月11日という祈りの日が来るたびに、私はこの「無関心」という名の暴力が許せなくなる。死者を冒涜し、社会の記憶を蔑ろにする存在は、明確な社会の敵である。我々は、記憶するという責任を引き受け、この人災に徹底的に抗わなければならない。




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