怪文書こそ保護すべき公益通報・公益通報者保護法の構造 | 菅野完 朝刊チェック 文字起こし
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怪文書こそ保護すべき公益通報・公益通報者保護法の構造

2025/12/31(水)朝刊チェック:不破哲三に学ぶ陰謀論との戦い方

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序論:ゴシップではなく「構造」を撃て

私が菅野完でございます。朝刊チェックの時間がやってまいりました。頑張っていかなあかんなぁ~言うてるところなんですけど。

これから始める兵庫県政の問題に関する議論は、個人のスキャンダルを暴き立てたり、感情的な怒りをぶつけたりするものでは、断じてない。これは、私が不破哲三から学んだ知的戦闘術の実践である。すなわち、「定義」「法構造」「論理」を武器に、相手の主張を根底から解体する、冷徹な戦いだ。兵庫県で見られるような制度的な腐敗と戦うには、このアプローチこそが不可欠となる。

本稿では、斎藤元彦知事サイドが振りかざした二つの致命的な詭弁を徹底的に解体する。一つは、告発文を無価値なものと印象付けるために使われた「怪文書」というレッテル。もう一つは、客観的な裁きを拒絶することで、自らの罪を認めてしまった「自白」の論理構造である。ゴシップに終始する野次馬ではなく、構造を撃つ批判者として、この問題の本質を抉り出していこう。

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1. 「怪文書」の逆説:なぜ批判が「褒め言葉」になるのか

あらゆる論戦において、言葉の定義を制する者が戦いを制する。兵庫県知事サイドは、内部告発文書に対して「怪文書」というレッテルを貼り、それによって議論そのものを封殺しようと試みた。しかし、その言葉の定義と法の構造を冷徹に分析する時、彼らの論理がいかに論理的に自爆しているかが明らかになる。

まず、「怪文書」という言葉を辞書で確認しよう。

  • 広辞苑:「いかがわしい文書。無責任で暴露的出所不明の文書、または手紙」
  • 大辞林:「抽象的・暴露的な内容で、主旨・筆者不明の文書」

これらの定義から浮かび上がる「怪文書」の核心的な構成要素は、**「出所不明」であること、そして「暴露的」**であること、この二点に集約される。

次に、この二つの要素を公益通報者保護法の構造と照らし合わせてみよう。この法律は、通報者が組織から不利益な扱いを受けないように、「犯人探し」を明確に禁じている。法律が「通報者を探してはならない」と命じている以上、保護されるべき通報文書は、権力者(通報された側)にとって**「出所不明」であり続けなければならない**。これは法の論理的な要請である。

さらに、公益通報とは、そもそも組織内部に隠された不正や犯罪行為を告発する行為だ。したがって、その内容は必然的に「隠されている秘密を暴く」もの、すなわち**「暴露的」**にならざるを得ない。「暴露しないものは通報ではない」のだ。

ここに至って、驚くべき逆説が姿を現す。知事サイドが告発文を指して「あれは怪文書だ」と批判する時、彼らは皮肉にも「あの文書は、出所が不明で、かつ暴露的な内容を含んでいる」と宣言しているに等しい。そしてそれは、その文書が公益通報者保護法が定める要件を完璧に満たしていることを、自ら証明していることに他ならない。この法的文脈において、「怪文書」という非難は、むしろ法的に保護されるべき通報であることを裏付ける**「褒め言葉」**なのである。

この論理の罠は、スパイ映画のアナロジーで考えるとより鮮明になる。敵のアジトから送られてきた極秘情報に対し、敵のボスが「この通信は送信者が不明で、我々の秘密を暴露しているから無効だ!」と叫んだら、滑稽でしかない。なぜなら、「送信者不明」で「秘密を暴露している」ことこそが、それが本物の諜報活動の成果であることの何よりの証左だからだ。

このように、相手が投げつけたレッテルは、その形式ではなく、その中身、すなわち告発の「本質」へと我々の視線を導くのである。

2. 「裁判に勝てる名誉毀損」という告発の本質

文書の形式が「怪文書」に酷似していることは、むしろ法の保護対象であることを示唆する。しかし、その告発が真に正義たりうるかの最終的な判断は、その「中身」にかかっている。ここで重要になるのが、ジャーナリスト藤倉善郎氏の言葉を借りて表現するところの、**「裁判に勝てる名誉毀損」**という概念だ。

告発とは、相手の名誉を傷つける行為、すなわち名誉毀損の形式をとる。しかし、それが以下の四つの要件(違法性阻却事由)を満たす時、単なる誹謗中傷ではなく、法的に保護されるべき正当な行為へと昇華する。

  1. 公共性 (Public Interest): その内容が社会的な関心事であること。
  2. 公益性 (Public Benefit): その目的が公益を図ることにあること。
  3. 真実性 (Truthfulness): その内容が真実であること。
  4. 真実相当性 (Reasonable Grounds for Belief in Truth): 真実であると信じるに足る相当な理由があること。

事実、今回の告発文書について、警察も当初は「公益性がある」と判断し、単純な名誉毀損事件としては扱えなかった。これは、文書の内容がこれらの要件を満たす可能性を公的機関が認めていたことを意味する。

結論は明確だ。最強の内部告発とは、腐敗した権力と戦うための究極の兵器である。それは、**「怪文書」という追跡不可能な鎧(形式)をまとい、「裁判に勝てる名誉毀損」という貫通力のある刃(中身)**を兼ね備えている。

この正当な告発に対し、告発された側がいかに非論理的な応答をしたか。次章ではその構造を解体する。

3. 「自白」の論理構造:なぜ判断の拒絶が罪の容認となるのか

告発そのものよりも、告発された側の反応の方が、時に真相を雄弁に物語る。ここでも不破哲三の教えに立ち返る。人物ではなく、その人物が用いた「論理の構造」こそを撃つべきだ。片山安孝前副知事が、第三者委員会の権限を公然と否定した言動は、その典型だ。彼の主張は、その破綻した論理を通じて、結果的に自らの罪を認める「自白」となる、まさに論理構造の教科書的事例である。

まず、客観的判断を拒絶する行為が、なぜ罪の容認と見なされるのか。原理は単純だ。自らの潔白に100%の自信がある人間は、「出るとこ出よう」と、第三者による検証を歓迎する。一方で、客観的な場で審理されれば負けると分かっている人間は、事実で争うことを避け、審判そのものを無効化しようとする。片山氏が第三者委員会の権限を否定したのは、客観的な法の土俵に上がれば自らが「負ける」と予期していたことの何よりの証左であり、これこそが構造的な「自白」なのである。

彼が持ち出した「私の立場では」という論理は、法治国家の根幹を揺るがすものだ。これは、調査されるべき対象者が、自らルールブックの裁定者になろうとする試みであり、自分に都合のいい現実を創造しようとする自己正当化に他ならない。

この論理の異常性を理解するために、相模原障害者施設殺傷事件の植松聖死刑囚の論理と比較してみよう。

植松死刑囚の論理: 「私が日本の法律を勉強し解釈した結果、生産性のない人間を殺すことは正義であり、死刑になるはずがない。裁判官の法解釈が間違っている」

片山氏の論理: 「第三者委員会や弁護士の解釈は間違っている。私が専門書を読んで勉強した『私の立場』の解釈では、あれは公益通報には当たらない」

目的や対象は違えど、法を捻じ曲げて自らを正当化するこの論理構造は、紛れもなく「全く一緒」である。犯罪や不正の当事者が、客観的な法を無視し、自ら作り出した主観的な解釈を盾に無罪を主張する。この態度は、社会通念上、「やったことは認めた上で、独自の理屈で正当化している」状態、すなわち「自白」以外の何物でもない。

このメカニズムを、ある殺人事件の捜査に例えてみよう。

  • 無実の容疑者(ディーン・フジオカ):彼は取り調べに対し、「その時間は別の場所で会議をしていました。防犯カメラを確認してください」と、検証可能な客観的事実を提示する。
  • 有罪の容疑者(菅野完):彼は事実には一切触れず、「私は法律を勉強した。私の法解釈によれば、すれ違いざまに睨んできた相手を刺すことは殺人罪には該当しない」と、奇怪な主観的法解釈を語り始める。

捜査官でなくとも、誰もが後者を犯人だと確信するだろう。片山氏が「いつ、どこで、何があったか」という事実ではなく、「私の法解釈では違法ではない」と語り続けたことは、まさに後者の容疑者と同じ振る舞いであり、それは我々の目には、明確な「自白」以外の何物にも映らない。

この個人の論理的破綻は、さらに深刻な行政システムの崩壊へと繋がっていく。

4. 行政論理の崩壊:「私の立場」が暴走を生む構造

不破哲三の流儀に倣い、この問題を個人の資質の問題から「構造」の問題へと引き上げてみよう。片山前副知事の言動は、単なる個人的な論理の誤りではない。それは、行政官として踏むべき手続きを完全に無視した、行政論理そのものの崩壊であり、法の支配の否定である。

行政官が、ある法律(今回で言えば公益通報者保護法)の解釈に迷った場合、とるべき唯一の正しい手続きが存在する。それは「自分で専門書を読んで勉強する」ことではない。その法律を所管する国の機関、すなわち「法の所管庁」(この場合は消費者庁)に公式に問い合わせ、見解を確認することである。これこそが、行政の統一性と客観性を担保する鉄則だ。

この一点において、片山氏が「専門書を読んで勉強した」と述べた瞬間、彼は行政官として即座に「負け」を認めたことになる。なぜならその発言は、国が定める公式な手続きを意図的に踏み外し、個人の主観的な判断を、国家の公式見解よりも優先させたという「行政の暴走」を自ら証明しているからだ。この手続き違反の告白もまた、もう一つの構造的な「自白」なのである。

現に、高市早苗大臣(当時)の国会答弁など、国としての客観的な法解釈は既に存在し、それは片山氏の個人的な「立場」とは相容れない。一個人が、国の公式見解を自らの「立場」で覆すなど、断じて許される行為ではない。

結論:不破哲三のように戦え。一本筋の通った理屈を武器に

本稿で解体してきたように、兵庫県知事サイドの主張は二重の論理破綻をきたしている。第一に、「怪文書」というレッテルは、法の構造を読み解くことで、逆に公益通報の正当性を証明する「褒め言葉」へと転化した。第二に、第三者による客観的な判断を拒絶し、「私の立場」を振りかざした行為は、自らの非を認める構造的な「自白」に他ならなかった。

不破哲三の闘争から我々が学ぶべき核心はここにある。有効な批判とは、人格攻撃や「下世話な話」に堕することなく、相手の主張の「構造」と「論理」の欠陥を、冷徹に、執拗に突き続けることだ。そうして初めて、**「どこへ持っていっても欠けることのない一本筋が通った理屈」**という、何ものにも揺るがされない武器を手にすることができる。

残念ながら、知事サイドとその支持者たちは、感情的なレッテル貼りが有効だと信じている「田舎者」であり、「偏差値29以下のマーケット」を相手にしているように見える。そこでは、論理の整合性など二の次だ。

我々がとるべき態度は、彼らと同じ土俵で感情的に叫ぶことではない。不破哲三がそうであったように、一本筋の通った理屈を構築し、相手の非論理性を暴き続けることだ。スポーツの試合で、ルールを無視する選手に「あいつはズルい!」と野次を飛ばすだけでは不十分だ。我々は、冷静に公式ルールブックを突きつけ、「選手が自らルールを解釈し、審判の判定を覆そうとする行為そのものが、競技規則に違反する退場事由である」と、構造的に証明し続けなければならない。それこそが、このような制度的腐敗と戦うための、唯一にして最も有効な方法なのである。

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