2025/12/31(水)朝刊チェック:不破哲三に学ぶ陰謀論との戦い方
私が菅野完でございます。朝刊チェックの時間がやってまいりました。頑張っていかなあかんなぁ~言うてるところなんですけど。
記事の要約と図解
【結論】 陰謀論やポピュリズムが跋扈する現代において、社会を動かす真の力とは「マイクを握って喋る」パフォーマンスではなく、「孤独に机に向かい、構造を書き記す」身体的な胆力である。不破哲三という最後の巨人が貫いた「下世話な話を拒絶し、個人ではなくシステムを撃つ」徹底した知的規律こそが、我々が直面する知性の崩壊を食い止め、社会を前進させる唯一の戦い方である。
【ポイント3選】
- 「喋る」と「書く」の残酷な非対称性: 近代社会のOSは「書き言葉」でできている。喋りで熱狂は生めても、法や制度という社会の歯車は「書く力(論理)」でしか回せない。
- ゴシップを捨てる「知的衛生術」: 政治家のスキャンダルなど大衆の劣情を煽る下世話な批判は、問題の構造的病巣から目を逸らさせる「知的ジャンクフード」に過ぎない。
- 「座る力」という物理的胆力: 陰謀論に抗うには、主観を排し客観的な構造分析を行う必要がある。それには「誰にも見られない部屋で何時間も座り、論理を構築し続ける」という残酷なまでの身体的忍耐力が不可欠である。
さて、本題に入ろう。先日、日本共産党の元委員長、不破哲三が亡くなった。この訃報に接して我々が考えねばならんのは、単に一人の長命な政治家が死んだという事実ではない。彼の死によって、この陰謀論とポピュリズムが吹き荒れる現代の言論空間から、ある種の決定的に重要な「知性」が、それも最後の一個が、消滅したという事実だ。
現代は「喋れるが書けない」人間どもが知性を気取り、跋扈(ばっこ)する時代だ。マイクを握り、耳障りの良い言葉や扇情的なスキャンダルをまくしたてれば、一時的な熱狂は生み出せる。だが、その熱狂が社会の仕組みを1ミリでも動かしたことなど、ただの一度もない。なぜか。近代社会という巨大な機械は、「書き言葉」という冷徹で非情なオペレーティングシステムで動いているからだ。
不破哲三という人物は、この「書く」という行為を通じて、社会の根源にある「構造」を分析し、それを変革しようと生涯を賭けた、最後の巨人であった。本稿は、彼の政治手法を再検証することで、陰謀論という現代の病理に我々がどう立ち向かうべきか、その具体的な「戦い方」を解き明かす試みである。
1. 知性の崩壊は「座れない」ことから始まる
まず、現代社会、特に政治や言論空間が抱える病理の根源から話を始めよう。それは、「喋る」能力と「書く」能力の間に、致命的なまでの不均衡が生じているという現実だ。一見些細なこの不均衡こそが、陰謀論やポピュリズムが繁殖するための培養地となり、我々の社会の理性を末期的に蝕んでいる。
立花孝志や石丸伸二といった連中を思い浮かべてみろ。彼らがマイクを握り、街頭で1時間喋り続ける。これは何の「胆力」も必要としない、ただの芸当だ。「喋り」は論理的な整合性が多少欠けていようが、その場の勢いやパフォーマンス、声の大きさでいくらでもごまかしが効く。聴衆を一時的に興奮させることはできても、その言葉が具体的な政策や法改正といった社会の歯車に噛み合うことは絶対にない。社会の「構造」を1ミリも動かせないという一点において、単なるお喋りは無能の証明に他ならないのだ。
なぜなら、近代社会の根幹、すなわち法律、契約書、政策、組織の定款、そのすべてが、「書き言葉」という極めて論理的なオペレーティングシステムによって動いているからだ。ここに、残酷な真実がある。「喋れるけど書けない人間は山ほどいるが、書けるけど喋れない人間はいない」。つまり、「書く力」とは、複雑な事象を構造的に理解し、論理を組み立て、他者の検証に耐えうる形で出力する能力の証明であり、社会という巨大な機械を操作するための絶対条件なのだ。
「喋り」に逃げ込む連中が必然的におちいるのが、構造を無視した陰謀論だ。では、我々がそうした思考の罠から脱却するにはどうすればいいのか。答えは、極めて物理的な訓練にある。「1万字の原稿を書く」という苦行だ。1万字という分量は、思いつきや感情の勢いだけでは絶対に埋まらない。ごまかしが効かないのだ。このプロセスは、書き手を「私はこう思う」という主観的な思い込みから、「なぜなら、法や制度がこうなっているからだ」という客観的な構造分析へと強制的に移行させる。誰にも見られない孤独な部屋で、机に向かって座り続けるという物理運動を通じて、自らの理性を鍛え上げる、いわば「知性の筋トレ」だ。
陰謀論者が構造を語れないのは、知能の問題ではない。彼らには、この孤独で退屈な知的作業に耐える「身体的な胆力」が決定的に欠如している。だから安易な個人攻撃やゴシップに逃げ込むのだ。この「書く」という行為の重要性を理解した上で、不破哲三という巨人が、まず何を「書かない」ように自らを律したのか。その驚くべき知的規律から、彼の戦い方の核心に迫っていこう。
2. 「田舎臭い批判」を拒絶する知的衛生術
不破哲三がその生涯を通じて貫いた「下世話な話をしない」という原則。これは、単なる個人的な品位の問題ではない。陰謀論がエネルギー源とする大衆の感情的な熱狂、その土俵自体を無力化するための、極めて高度な戦略であり、知的衛生術であった。
金丸信の巨額脱税事件を思い出せ。当時、メディアと大衆が熱狂したのは何だったか。「布団の下から金塊」「豪邸で贅沢三昧」。これらは、大衆の嫉妬や覗き見趣味、安直な義憤といった、理性を麻痺させる低俗な感情、いわゆる「劣情」を強烈に刺激するネタだった。
だが、不破哲三は、こうしたゴシップに一切乗らなかった。それどころか、党員に対し「そういう田舎臭い批判はやめよう」「下世話なことを言うな」と厳しく戒めたのだ。彼は、下世話な話に終始することが、問題の本質から大衆の目を逸らさせてしまうことを見抜いていた。「金丸はけしからん」という道徳的な個人攻撃に議論を矮小化させてしまえば、その腐敗を生み出した「政治資金制度の欠陥」という真の病巣が見えなくなる。メディアが「金塊の上で寝たら体は冷えるか」などという、知的に破産した検証に興じている間、不破だけが冷静にその構造を撃つ準備をしていたのだ。
これは、彼が『スキャンダルという名の知的ジャンクフード』を決して摂取しないという、意識的な知的衛生術であった。劣情をくすぐる手法は、化学調味料たっぷりの激辛スナック菓子だ。一口食べれば強烈な刺激があり中毒性も高いが、栄養はなく、社会の理性をむしろ破壊する。不破が提供しようとしたのは、素材の味と調理法(構造と論理)にこだわった懐石料理だった。派手な味付け(スキャンダル)はなく、一見地味で「味が薄い」と感じるかもしれない。しかし、これこそが社会の体を養い、本質的な解決という満足をもたらす唯一の食事なのだ。
この下劣な個人攻撃の土俵から降りた不破が、その代わりに何を語ろうとしたのか。彼の分析のメスは、一体どこに向けられていたのか。
3. 「人間」という甘えを捨て、「構造」だけを撃ち抜け
ここからが、不破哲三に学ぶ「戦い方」の核心だ。彼は、個々の政治家や目先の不祥事という「現象」への批判を戦略的に避け、一貫してその背景にある「システム」そのものを撃ち抜こうとした。
金丸信が逮捕されたとき、世間は彼を「強欲な悪党」として断罪した。しかし、不破の視点は全く違った。彼は、金丸信でさえも「制度の奴隷である」と喝破したのだ。これはどういうことか。「金丸が強欲だから贅沢をした」のではない。「腐敗した蓄財を可能にし、選挙に勝つためにそれを必要とさせる政治資金制度という『構造』が、必然的に金丸のような人間を生産したのだ」という冷徹な分析だ。目の前の個人ではなく、その個人を生産する工場(社会の構造)をこそ、問題にしたのである。
この「構造」を無視し、「個人」を主語にする態度の危険性は、現代の事例を見ればより鮮明になる。記憶に新しい兵庫県知事をめぐる問題を見てみろ。片山元副知事は公益通報者保護法の解釈について、「私の立場では」などという、法治国家の前提を覆すような寝言による自己弁護を繰り返した。これは、客観的なルールである「構造(法)」よりも、「個人(私の主観や保身)」を優先させる極めて危険かつ傲慢な態度だ。彼らは気づいてすらいないが、客観的な法を個人の主観で勝手にねじ曲げるこの「私の立場では」という甘えが最終的に行き着く先が、津久井やまゆり園事件の植松聖が振りかざした「僕が法律を解釈すれば、生産性のない人間は殺していい」という狂気なのだ。論理構造は寸分違わず同じだ。
この狂気は決して比喩などではない。では、属人的な批判を捨てて『構造』を撃つとは、具体的にどういうことか。なぜ構造分析こそが有効なのか。『交通事故が多発する交差点』のアナロジーで説明しよう。陰謀論者やポピュリストは、事故を起こしたドライバー個人を指差し、「あいつの運転が下手だ!性格が悪い!」と罵倒する。感情的な魔女狩りで聴衆は盛り上がるが、次の事故は防げない。一方、不破のような構造分析家は、ドライバーには目もくれず、黙って交差点の設計図を広げる。「なぜここでは事故が多発するのか」と問い、「信号機のタイミングか」「道路の設計(構造)か」と、システムそのものの欠陥を修正する。個人を責めても何も解決しない。陰謀論が提供する安易な「犯人探し」を無力化し、社会を前進させる方法は、この構造分析以外に存在しない。
だが、このような冷徹な分析を、何十年にもわたって続けるためには、一体どのような資質が求められるのか。
4. 胆力とは「座る力」であるという身体的事実
不破哲三の真の凄み。それは、彼の卓越した分析手法だけにあるのではない。その冷徹な分析と地味な知的作業を、生涯にわたって継続し続けた、常人離れした「胆力」にこそある。この胆力こそが、一過性の熱狂に過ぎない陰謀論を根本から打ち砕く、決定的な力なのだ。
ここで言う「胆力」とは、抽象的な勇気や精神論のことではない。それは「2時間黙って机に向かい、論理的な文章を書き続けられる」という、具体的かつ身体的な能力を指す。文章を書くのに必要なのは、気の利いた文才などではない。問われているのは、「誰にも見られない孤独な部屋で、キーボードに向かって同じ場所に何時間もずっと黙って座っていられるか」という、退屈で物理的な苦痛に耐える力だ。街頭でマイクを握り、歓声に包まれる快楽とは対極にある、この退屈極まりない「座る力」、ただそれだけなのだ。
不破が晩年に示した自衛隊や天皇制を容認するかのような「現実路線」。多くの者はこれを、革命を諦めた「妥協」だと解釈した。全くの誤解だ。彼の選択は、最終目的を達成するために、国民世論という無視できない現実を直視した上で導き出した、「革命への最短距離」であった。なぜ最短距離なのか。それは、「今すぐ廃止」と叫んで玉砕する無能な理想主義を捨て、「国民世論が変わるまで、我々が議論をリードし続ける」という、気の遠くなるような数十年単位のプロジェクトを遂行する、最高の戦略的忍耐の現れだからだ。その根底には、この強靭な「胆力」があった。
この冷徹なまでのリアリズムは、いわば『難攻不落の城を落とす将軍』のそれに等しい。短絡的な将軍は「全軍突撃だ!」と叫び、玉砕する。だが不破という将軍は、「今の装備では正面突破は不可能だ」と現実を直視し、「ならば、城の周りに堀を掘り、兵糧攻めにし、数十年かけて地下トンネルを掘ろう」と計画する。彼は「絶対に城を落とす」という目的を片時も忘れず、最も確実で、最も時間のかかる地味な作業を黙々と続けるのだ。
下世話な話に乗らず、人間ではなく構造を撃ち、そしてそれを胆力を持って継続する。これら不破哲三の原則が、現代を生きる我々にとって、一体どのような意味を持つのか。

5. 陰謀論という「ジャンクフード」を断ち切るために
本稿で明らかにしてきた、不破哲三から学ぶべき陰謀論との戦い方を、ここに3つの原則として再整理する。
- 原則1:下世話な話(感情的な個人攻撃)の土俵から降りる。
- 原則2:「人間」ではなく、それを生み出す「構造」を主語にして語る。
- 原則3:地味で孤独な知的作業(書くこと)を継続する「胆力」を持つ。
これらの原則は、決して過去の一政治家の処世術などではない。情報が氾濫し、感情的な言説が理性を圧倒する現代社会を、我々が正気を保ったまま生き抜くための、極めて実践的な「知の技法」なのだ。
結論を言おう。陰謀論とポピュリズムという『お喋りの病』に対抗できる唯一のワクチンは、これに尽きる。『書くこと』という孤独で泥臭い物理運動によって、自らの理性を鍛え上げること、ただそれだけだ。
陰謀論者やポピュリストは、派手なパフォーマンスで耳目を集める「ヤブ医者」だ。彼らは声高に「あなたの不調は悪霊のせいだ!」と騒ぎ立て、気休めの安物薬(陰謀論)を売りつける。一時的な安心感は得られるが、病巣は悪化する一方だ。
不破哲三が示したのは、「名医」の姿だった。彼は患者の見た目や性格を批判せず(下世話な話をしない)、MRIや血液検査という冷たいデータ(構造分析)で体内の病巣を正確に突き止める。そして、特効薬がなくとも決して諦めず、地道で苦痛を伴う治療を何十年でも続けようとする(胆力)。
我々が今、学ぶべきは、この名医の姿勢だ。派手なヤブ医者の口車に騙されることなく、たとえ地味で時間がかかろうとも、社会の構造的な病巣を突き止め、それを治療し続けること。陰謀論という「ジャンクフード」が溢れるこの時代に、我々が健全な知性を保ち、民主主義という巨大な機械をわずかでも前に進めるためには、マイクが生み出す安易で一過性の熱狂を拒絶し、孤独な机に向かって『書く』という泥臭い苦行を引き受けるしかない。それこそが、不破哲三という巨人が我々に遺した、最も重く、かつ切実な宿題なのである。

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