政治・メディア批判と文化論の文脈
まず、菅野氏は日本の「政局」に関するメディア報道が、政策や政党内のガバナンス(党内手続き)といった実質的な問題ではなく、ゴシップやタレント報道のような個人的なドラマに終始していると批判しています。たとえば、国民民主党の玉木氏と高市氏の協力を報じる記事は、政党間の連携ではなく、単なる「玉木氏と高市総裁の協力」といった個人名に焦点を当てており、これは「誰と誰がラブホテルに行ったかという話と一緒」のゴシップ記事であると論じられています。メディアは、こうしたゴシップこそが有権者の「好きなもの」だと決めつけて報道している、という苛立ちが示されています。
この政治報道の**「軽さ」や「湿気」**に対抗する理想的な文化像として、ダイアン・キートンが導入されます。
ダイアン・キートンが象徴する文化論
ダイアン・キートンは「世界中が彼女にしていた」「世界の恋人」であったと表現されています。彼女は、特に1970年代以降、映画を通じて**「独立した女性」(独立した自分の意思のある女性)のイメージ**を表現し続けました。
- 旧世代の女性像との対比: キートンが体現する女性像は、それ以前のアイコン、例えばマリリン・モンローやグレース・ケリー(「美しくて男の世界に媚びる」女性像)とは対照的です。また、オードリー・ヘプバーンが『ティファニーで朝食を』で表現しようとして、時代が早すぎたためにキャリアが潰れたとされる独立性(60年代の精一杯)を、キートンは70年代に成功させました。
- ゴッドファーザー (映画)とアニー・ホール:** 彼女は『ゴッドファーザー』において、マフィアのボスであるマイケル(アル・パチーノ)の「家族」や「地位」といった旧来の価値観を懐疑的に見る設定で登場し、最終的には男の世界から締め出される形で別れていきます。そして、ウディ・アレンの映画、特に『アニー・ホール』を通して、独立した女性のイメージを確立しました。
- 「西側先進国の倫理観」の基盤: 菅野氏は、ウディ・アレンとダイアン・キートンが作り上げた世界観が、**「西側先進国の倫理観のベースになってしまっている」**と見ています。
- アニー・ホールによるリトマス試験紙: 『アニー・ホール』を理解できるかどうかが、現代の文化的、政治的価値観を測るリトマス試験紙として提示されます。具体的には、**「アニー・ホール見て何とも思わんやつは多分参政党に投票するよ」**という極端な例を挙げ、キートン的な独立性や洒脱さを理解できない人々が、非近代的な政治観に傾倒していると示唆しています。
「ダイアン・キートンぽさ」の政治的必要性
この文化論は、日本の政治批判に直結します。菅野氏が批判する日本の政治(特に男性主導の政治)は「陰湿」であり、「ベトベトじとじと」していると評されます(例として、国民民主党の玉木氏と榛葉氏のYouTube配信が挙げられています)。
この**「男の社会が因質」である状況を打破するためには、その対極にある「極度なカラっとした」イメージ、すなわち「ダイアン・キートンぽさ」が必要だと主張されています。キートン的な「湿度がない感じ」**は、男社会の陰湿なホモソーシャルな世界に対抗するために不可欠なのです。
日本の野党や左派陣営(社民党など)が衰退した原因の一つも、内部の運営が「おっさんドリブン」(男性社会そのまま)であり、女性を差別しすぎたことにあると指摘されており、ここでも旧態依然とした政治文化への批判が、キートンが象徴する現代的な独立した女性像の必要性を裏打ちしています。
総じて、これらのソースは、「日曜雑感」というリラックスした語り口の中で、日本の政治がゴシップと化し、本質的な議論から逃避している現状を嘆き、その解決策として、ダイアン・キートンが体現した近代的な独立心とドライな倫理観という文化的な価値観を、政治の世界に取り入れるべきだというメッセージを強く打ち出しています。
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